タイワン(台湾)
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タイワン(台湾)
VI. 歴史

台湾は古くから中国のはるか東海上にある島として認識されていた。中国の文書に台湾への探検の記録が登場するのは、607年のことである。14世紀半ばに元が澎湖島を統治下においたが、その後も台湾本島は公的にはどこにも「領有」されることなく、海域を通過する船舶の一時的な寄港地、あるいは海賊の巣窟(そうくつ)となっていた。

16世紀になって、当時アジア海域で活躍していたポルトガル船がヨーロッパ人ではじめて台湾を「発見」した。緑におおわれた台湾をみて「イラフォルモサ(うつくしい島)」と称賛したといわれ、今でも欧米では台湾を「フォルモサ」とよぶことが多い。

台湾を最初に「領有」したのはオランダとスペインだった。オランダはまず澎湖島を占領したのち、1624年に現在の台南市周辺を占領し、中国大陸から中国人労働力を導入して、プランテーション的経営にのりだした。一方、26年にはスペインが台湾北部に進出し、開拓をはじめた。しかし、42年には、スペインはオランダ勢力によって台湾から追放され、オランダの支配は、鄭成功に駆逐されるまで37年間におよんだ。

1. 大陸からの移住民による開拓

1644年、明は中国北部の満州族の清によってたおされた。明朝の遺臣たちは「反清復明」をかかげ、反攻をくりかえした。そのリーダーのひとりが鄭成功である。鄭成功は61年オランダを駆逐し、台湾を清への反攻の拠点とした。台湾の漢民族による統治はこの鄭成功の時代にはじまる。鄭氏は3代22年間にわたって台湾を統治したが、83年清に降伏、こうして台湾は清の統治下に入ることになった。

その後、台湾へは大陸から続々と漢民族が移住し、開拓地を拡大していった。地理的に近接していることから、移住民はほとんど福建省南部と広東省東部出身だった。現在の台湾の言語文化がこの地方にきわめて近いのはこのためである。

台湾の開発は台南にはじまり、開拓前線は2世紀をかけて北上し、台北が本格的に開発されるのは19世紀に入ってからだった。おもに農業と大陸との貿易によって発展していったが、19世紀半ばに入って、ヨーロッパ列強諸国の勢力がおよぶにいたった。1858年に清がアロー戦争にやぶれ、天津条約が締結された結果、台湾でも台南のアンピン(安平)港や基隆港が開港されることとなった。

1874年には日本による台湾出兵がおこなわれ、84~85年の清仏戦争の際には、フランス艦隊が台湾北部の攻略をはかった。清はそれまで台湾の山間部や東部沿岸地域を「化外の地」として積極的に統治してこなかったが、台湾を防衛するために劉銘伝(りゅうめいでん)を派遣し、85年、従来福建省に属していた台湾を台湾省に昇格させ、劉銘伝は初代の台湾巡撫(たいわんじゅんぶ:地方長官)となった。劉銘伝は台湾全域の実効支配をめざす一連の近代化政策を実施したが、じゅうぶんな成果を達成できないまま、台湾は日本の植民地となる。

1895年、日清戦争の結果締結された下関条約で、台湾と澎湖島は日本に割譲された。日本は台湾総督府をおき植民地統治を開始した。当初日本は、台湾統治政策として植民地主義を採用し、内地とはことなる植民地法を適用したが、1922年からは原則として内地と同じ法制度を植民地にも適用。この同化政策は、法制度だけではなく、文化的にも植民地の「日本化」をはかるものだった。

1936年以降、日本の総力戦体制化がすすむと、皇民化政策により同化政策をさらに強化し、新聞の漢文欄を禁止、日本語使用を徹底、改姓名を奨励した。また陸海軍で志願兵制度を導入し台湾人兵士を戦場におくった。その一方で日本は、鉄道や道路などインフラストラクチャーの整備や教育制度の充実をはかり、それらの成果は戦後の台湾にもひきつがれている。しかし、日本の植民地支配に対して漢族系台湾人による抗日民族運動が20年代に全島的に展開され、また30年には台湾中部でタイヤル族による抗日蜂起(ほうき:霧社事件)がおこった。

2. 国民党政権

1945年、日本の敗戦で、台湾と澎湖島は中国へ返還された。これを台湾では「光復」とよぶ。しかし、植民地からの解放もつかのま、台湾接収のため中国から派遣された官僚や兵士の横暴と腐敗に対する台湾住民の失望は大きかった。台湾住民の不満はついに47年2月28日の暴動「二・二八事件」へと発展した。中華民国政府はただちに軍隊を派遣して、暴動を鎮圧した。しかしこの事件は後々まで、台湾住民(本省人)と45年以降、台湾へわたってきた移住民(外省人)との間に深い溝をのこすこととなった。「二・二八事件」は長い間歴史から抹殺されていたが、91年、李登輝総統が歴史的事実であることを承認した。

1949年に人民解放軍を擁する中国共産党が中国国民党(国民党)をやぶり(国共内戦)、中華人民共和国の成立を宣言すると、蒋介石ひきいる国民党政権はその軍隊をひきつれて台湾へのがれ、台北を国民政府の臨時首都として大陸反攻をとなえた。50年の朝鮮戦争の際に中国共産党は台湾攻略をはかったが、アメリカが第七艦隊を派遣して台湾防衛をおこなった。その後、アメリカは台湾に対して、軍事援助だけでなく経済援助を65年まで実施、また54年には国民政府とアメリカは安全保障条約をむすび、さらにその関係を強化した。こうして台湾がアメリカの防衛下におかれた状態で、50年代の中台関係は緊張をつづけていくことになった。

3. 「奇跡」の経済発展

アメリカは台湾に対し、1950~65年にかけて膨大な軍事および経済援助をおこなった。この援助をもとに台湾は農地改革や工業化を推進し、65年の台湾の工業生産は前年比約300%増、輸出額は3倍、輸入額は2倍にのぼった。こうした台湾のほかに類をみない急速な経済発展は、アジア諸国のモデルとなっている。

一方台湾をめぐる国際情勢は、1960年代に入って変化しはじめた。蒋介石は66年総統として第4期目に入り、長男の蒋経国も65年国防部長に就任し、ますます国民党への権力集中を強化した。しかし、60年代に入って、中華人民共和国を承認する国がふえるのにともない、中華民国政府と国交を断絶する国が増加していった。こうした台湾の外交的地位の低下は経済関係にも影響をあたえ、台湾との経済的結び付きを弱めていく動きがみられるようになった。

4. 国際関係の変化

1970年代、台湾をめぐる国際関係は大きな転換をとげた。アメリカが中華人民共和国へ接近したことが決定的な要因となった。台湾の国民政府が中国を代表する政権として国際連合(国連)に加盟していることに批判が高まり、71年ついに国連総会は、中華人民共和国の代表権を承認し、台湾は国連の議席をうしなった。これをうけて72年ニクソン大統領は中国を公式訪問、つづいて日本が同年、中華人民共和国と国交を回復した。79年にはアメリカも正式に中華人民共和国と国交をむすび、台湾との外交関係を断絶した。これにともない、中華人民共和国を承認し台湾と断交する国があいついだ(2008年1月現在、国交をむすんでいる国は23カ国にすぎない)。

しかし台湾は、経済力を背景に各国との経済関係を強化し、その経済的地位は外交的孤立にもかかわらず、ゆるぎないものとなっており、実務的代表機関は61カ国におかれている。蒋介石は1972年、5期連続総統に選出されたが、75年に病死し、後任には副総統の厳家淦(げんかかん)が就任、78年には、72年から行政院長(首相)の地位にあった蒋経国が総統に選出された。国民党政権の一党独裁はひきつがれ、蒋経国は84年にも総統に再選された。このとき副総統には本省人の李登輝が起用された。

国民党による支配がつづく中で、1970~80年代にかけて経済はますます発展し、日本、アメリカ、ヨーロッパと貿易関係を拡大した。経済発展を背景に中産階級が成長し、政治参加をもとめる意識が高まった。戒厳令下で新規政党結成が禁止されていたが、反国民党勢力は「党外」として結集し民主化を要求、86年民主進歩党(民進党)を結成すると国民党政権はこれを黙認した。87年蒋経国は民主化要求をうけいれることを決断し、38年間つづいていた戒厳令を解除した。88年1月蒋経国は死去し、後任総統に李登輝が本省人としてはじめて就任した。

5. 民主化の進展

1989年には史上はじめて民主進歩党(民進党)など複数政党が参加した選挙が実施された。96年3月に実施された初の国民直接選挙による総統選挙には、国民党の李登輝、野党新党の林洋港、独立の旗手といわれる民進党の彭明敏(ほうめいびん)らが立候補し、李登輝が54%を得票し総統に選出された。李総統のもとで、台湾の民主化は加速され、国内の政治改革とともに中華人民共和国との関係改善に積極的な政策を展開した。93年4月には中台それぞれの代表がシンガポールで、関係改善にむけての話し合いをおこなった。しかし、96年の総統選挙の際に台湾近海でミサイル演習をおこなうなど、台湾における「独立」気運に対する中国政府のきびしい牽制(けんせい)は、その後もたびたびくりかえされた。

国民党は、1998年12月の立法院選挙で過半数の議席を占め、同時におこなわれた台北市長選挙でも野党民進党の現職候補をやぶって当選させるなど、安定した強さをみせた。国民党政権のもとで、台湾海峡をはさむ中国本土沿海部の経済特区への投資は活発におこなわれたが、中国との直接の通商・通航・通信は禁止する「三不」政策がとられた。

政治の民主化がすすむにつれ、住民の中に台湾の自立をもとめる気運が広がり、本省人の李総統は、1999年7月に、中国と台湾は「特殊な国と国との関係」と発言、「一つの中国」を主張する中国側の反発をまねいた。

1999年9月21日、台湾中部を震源地とするマグニチュード7.7の大地震が発生し、死者は2400人以上にのぼった。日本をふくむ各国が国際緊急援助隊を派遣し、生存者の救出にあたった。震源地に遠い台北市内でも倒壊したビルがあり、耐震基準のあまさが明るみに出た。停電で操業停止になった工場もあり、世界の半導体市場に一時的な混乱をひきおこした。

2000年3月の総統選挙は国民党の連戦(れんせん)候補(副総統)、国民党を離党して無所属で出馬した宋楚瑜候補(前台湾省長)、民進党の陳水扁(前台北市長)の3者を中心に激戦がくりひろげられ、陳が次点の宋をわずかにおさえて当選、長期にわたった国民党政権に終止符がうたれた。民進党は綱領に台湾独立をかかげているため、選挙期間中中国が再三にわたって警告を発した。総統に当選した陳は、中国との直接の通商・通航・通信を00年のうちに解禁したいとする「三通」政策をうちだした。中国とともにWTO(世界貿易機関)に加盟することになっている台湾と中国との経済交流を、関係改善の糸口にする意向を表明したものであった。

5月、総統に就任した陳は、唐飛(とうひ)前国防部長を行政院長(首相)とする内閣を発足させた。国民党政権の重鎮だった唐の起用の背景には、国民の融合をはかるとともに、立法院内で少数与党であるという事情があった。陳総統はまた、地方議会が国民党と癒着した暴力団によって牛耳られている現状(「黒金政治」とよばれる)を打破するため、陳定南(ちんていなん)を法務部長につけて改革にのりだした。

陳総統がかかげていた脱原発は、野党の国民党から強い批判をうけたが、建設するのは工事中の第四原発までで終了し、以後は非核体制を目標とすることで国民党とも合意した。2001年8月には、前総統の李登輝が主導する新政党「台湾団結連盟」(台連)が発足、陳政権との連携をうちだした。

6. 国民党にかわり民進党が第1党に

2001年12月におこなわれた立法院選挙で、民主進歩党(民進党)は改選議席を大きくうわまわる議席を獲得、国民党にかわって第1党となった。総統選挙での陳水扁の勝利につづく民進党の躍進で、台湾の民心が、より自立の方向に動いていることが明らかとなった。国民党ははじめて第1党の座をうしない、中国と台湾の共存論によりかたむいている前総統で前国民党主席でもあった李登輝が主導する台連の動きもあり、内部的な混迷を深めた。ただ、第1党となったとはいえ、民進党の議席は過半数におよばず、台湾団結連盟(台連)をあわせてもとどかなかった。

経済面では、2002年1月に、前年12月の中国につづき、WTO(世界貿易機関)への加盟が実現した。これは「国」としての加盟ではなく、「台湾・澎湖・金門・馬祖の独立関税地域のために行動する政府」としての加盟承認であった。この加盟により、台湾経済は、世界の自由貿易体制とより一体化することになった。

陳政権はWTO加盟実現にひきつづき、オブザーバー資格でのWHO(世界保健機関)加盟を目標としたが、中国の強硬な反対で実現のめどはたっていない。経済界を中心として三通政策をもとめる声が高まる中、陳総統は「一辺一国」(台湾と中国はそれぞれ1つの国)と発言し、あらためて「中華民国」が独立主権国家であることを強調したが、内外に波紋をよんだ。

世界的不況は台湾経済に影をおとし、また中国への工場移転などで産業の空洞化もすすみ、失業率が5%をこえた。景気回復には経済構造改革が不可欠という認識から、不良債権問題をかかえる農漁会信用部の金融改革を実施しようとしたものの、農民の強い反対で断念した。2003年3月からのSARSの世界的流行では流行拡大阻止に失敗し、5月WHOは台湾全域を重度感染地域に指定した。7月に指定は解除されたが、後手にまわった対策に陳政権への批判が高まった。

2004年の総統選挙戦では、国民党と親民党とが連合して、連戦を総統候補、宋楚瑜を副総統候補とした。連戦は中国との関係改善と景気回復をうったえ、選挙戦序盤は世論調査の支持率で陳水扁をリードした。これに対し陳水扁は、対中国政策をめぐる住民投票(中国のミサイルに対する防衛能力を強化するなど)の実施、新憲法の制定など、台湾人意識にうったえる政策をかかげ、選挙戦終盤にはげしく連戦をおいあげた。

投票日前日の3月19日、台南で陳水扁に対する銃撃事件が発生したが、3月20日予定どおり総統選挙は実施され、大接戦の末、陳水扁が得票差2万9518票、得票率で0.22%という僅差(きんさ)で再選された。同時に実施された住民投票は投票率が約45%にとどまり、規定の過半数に達しなかったため成立しなかった。陳水扁は5月20日に総統就任演説をおこない、2期目がスタートした。

2004年12月におこなわれた立法院選挙は、民進党が議席を若干のばしてひきつづき第1党となったものの、台連は現状維持にとどまり、陳総統がめざした与党連合による過半数獲得はできなかった。野党は、親民党が議席を減少させたが、国民党は大幅にのばし、野党どうしの共倒れをふせぐ戦術が功を奏し、野党全体で過半数をわずかにうわまわった。

陳総統は選挙期間中に、現行の中華民国憲法にかわる台湾新憲法づくりをかかげ、2006年12月の住民投票、08年5月の施行など日程も明らかにした。また、公営企業の名についている「中華」とか「中国」を「台湾」にあらためようともうったえた。

こうした陳総統や与党連合による急激な台湾の自立化路線は、中台関係の現状維持をのぞむアメリカの支持をえることができず、また住民にも、自立志向を強めながらも中国との緊張関係はさけたいという意識がはたらき、多数の支持をえることはできなかった。

過半数の議席を獲得できなかったことで、陳総統の戦略は見直しをせまられ、とだえている中台対話の再開をのぞむアメリカの意向もあり、中台関係の改善が重要な課題となった。

7. 中国が反国家分裂法を制定

陳総統が台湾独立への志向を強めることに危機感をいだいた中国は、2005年3月の全人代で「反国家分裂法」(「国家分裂防止法」)を制定した。同法は、台湾は中国の一部であり一つの中国の原則を堅持すること、平和統一後の台湾には大陸とはことなる制度と高度な自治があたえられるなどの従来からの主張を確認するとともに、台湾を中国から分裂させる事実や重大な事変が発生したり、平和統一の可能性が完全にうしなわれた場合には、非平和的方法や必要な措置をとることを宣言したものであった。

民主進歩党(民進党)と台湾団結連盟(台連)が主催した、同法の制定に抗議する大規模デモが台北市と高雄市でくりひろげられたが、陳総統は参加をひかえ、緊張が高まることをさける配慮をみせた。陳総統はその前の2005年2月、第2野党で対中国協調派の親民党主席宋楚瑜と会談し、独立宣言はしない、国号を変更しないなどで合意、対中融和策に転換する姿勢をしめしていた。与党連合を形成する急進独立派の台連は、この合意を公約違反だとして批判、与党連合内での足並みの乱れがみられた。

8. 60年ぶりの国共首脳会談

2005年4月、最大野党、国民党の連戦主席が中国大陸を訪問し、北京で中国共産党の胡錦濤総書記(国家主席)と会談した。両党のトップ会談は、第2次世界大戦後に勃発(ぼっぱつ)した国共内戦直前の1945年に毛沢東と蒋介石がおこなった重慶会談以来60年ぶりのことだった。陳水扁政権の自立化路線に変化がみえはじめた機会をとらえ、野党党首としての存在感をしめそうとする連戦と、台湾の自立をおさえ統一への気運をもりあげたい胡錦濤の思惑が一致したことで実現した。

発表された両党の共同声明には、「92年合意」(台湾が国民党政権であった1992年に中国と確認した、中台双方が「一つの中国」原則を各自で解釈するとしたもの)の堅持と、台湾独立に反対し台湾海峡の平和と安定を追及することが明記された。対話の早期再開、中台直行便や経済の全面的な交流などももりこまれた。

2005年5月には、第2野党親民党の宋楚瑜主席も訪中、「92年合意」と中台の早期の対話再開で合意した。野党とはいえ、陳水扁総統と一定の政策合意をした立場での中国訪問であっただけに、陳総統の対中融和への転換をしめすものともみられた。しかし陳総統は、「一つの中国」の原則をみとめない姿勢をくずさず、その後も対中政策に大きな変化はみられなかった。12月の統一地方選挙では、23の県長・市長のうち14ポストを国民党が獲得、民主進歩党(民進党)は10から6にへらして大敗した。

対中貿易額が急激にふえつづけ、台湾にとって中国の存在が以前にもまして大きくなっている中で、台湾自立への道を志向する陳総統の動きは、対中融和路線をとる国民党や、大きな変化をきらうアメリカ、そして「一つの中国」政策をとる中国の包囲網によって封じられたかたちとなった。また、陳総統の周辺では、夫人が総統府の機密費を私的流用した疑いで起訴されるなど、スキャンダルが続出し、陳政権の支持率も低迷しつづけた。

2008年1月、小選挙区比例代表並立制を導入したはじめての立法院選挙がおこなわれ、国民党は、陳総統周辺での政治腐敗やスキャンダルを攻撃、経済の失政が貧富の差をもたらしたと批判した。定数はほぼ半減の113となったが、国民党はその3分の2をこえる81議席をえて、1998年の選挙以来の大勝となった。与党、民進党は27議席しかとれず、小選挙区比例代表並立制によって差が増幅された面はあるが、民意は陳政権がすすめる独立路線より、景気や生活の安定をもとめているとの結果となった。陳総統の任期満了にともなう総統選挙をひかえ、民進党にとって大きな打撃だった。総統選挙と同時に「台湾名での国連加盟」の是非を問う住民投票をおこなうことになったが、住民投票については「事実上の台湾独立投票」として中国が強く反発、アメリカやフランスも住民投票に反対を表明した。

9. 国民党が8年ぶりの政権交代へ

2008年3月の総統選挙では、陳水扁総統の後継として民進党主席代行となった謝長廷(しゃちょうてい)と国民党前主席の馬英九(ばえいきゅう)が出馬し、馬が大差で勝利した。謝は立法院選挙の結果をうけて陳総統の強硬路線はとらず、中台関係の現状維持を明言。一方の馬も中台対話を重視しながらも「統一、独立、武力行使」の3つを否定する「3つのノー」を約束し、台湾海峡の安定によって経済を振興させるとした。馬は選挙戦で、陳政権の経済政策を失政として批判、対中経済促進など交流拡大によって経済再生をはかるとして支持を広げた。投票日の直前には、中国のチベット自治区で中国政府の統治に抗議する暴動がおき、「中国の脅威」への警戒感が高まったが、馬候補優利の流れが謝側へひきよせられることはなかった。

総統選挙と同時におこなわれた、民進党が提案した「台湾名での国連加盟」の是非と、国民党が対案として提案した「中華民国名などでの国連復帰」の是非を問う住民投票は規定条件に達せず、ともに不成立におわった。