| 検索ビュー | 野球 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
アメリカで生まれた団体球技。中南米、東アジア、オーストラリアでも広くしたしまれている。日本も野球の盛んな国のひとつで、プロ野球をはじめ、大学、高校、社会人、軟式野球と底辺が広い。
通常9人ずつの2チームが交互に攻撃をおこない、終了までに多く得点した側が勝ちとなる。1塁、2塁、3塁、本塁と4つのベースを使用するところからベースボールとよばれる。
| II. | アメリカ野球史 |
今日のアメリカには人気の四大プロスポーツがある。NFLのアメリカン・フットボール、NBAのバスケットボール、NHLのアイスホッケー、そしてMLB(メジャー・リーグ・ベースボール)の野球である。その中でも、全米の隅々にまで傘下のマイナー・リーグ・チームをあわせもつプロ野球のMLBがもっとも人気が高く、ファン層も幅広い。その歴史は100年をはるかにこえ、アメリカの伝統文化ともいえるほどの存在になっている。
| 1. | 起源 |
野球の起源についての有力な一説は、1907年にアメリカのナショナル・リーグ会長ミルズを委員長とするベースボール起源調査委員会がしらべたものである。それによるとアメリカのアブナー・ダブルデー少将が考案し、最初のゲームは1839年にニューヨーク州のクーパーズタウンでおこなわれたというものである。しかし、18世紀にイギリスのクリケットから分岐したラウンダーズという子供の遊びがアメリカにもちこまれたという説もあり、さらに、アメリカ大陸が発見される前にラプタとよばれるボールとバットの競技がロシアにあり、それをまねたものが野球だとする説もある。
初期のころは人数もまちまちで、ベースも棒杭(ぼうくい)や穴などでしめされ、フライの捕球もワンバウンドまではみとめられ、ミットもグラブもなく素手でやっていた。野球を現在のようなかたちに近づけたのは、1845年ニューヨークに最初のクラブチーム、ニッカーボッカー野球協会を創設したアレキサンダー・カートライトだった。ダイヤモンド形(正方形で1塁から3塁、本塁から2塁までをそれぞれ42歩)のフィールドを考案し、(1)21点を記録して勝負がきまる、(2)投手はアンダーハンドでなげる、(3)3人アウトで攻守交替する、などの統一規則をもうけ、翌46年には1チーム9人とした。このころからクラブチームがふえはじめ、初のクラブ対抗試合はニッカーボッカー野球協会とそこからわかれたニューヨーク・クラブとの間でおこなわれた。58年にはナショナル・アソシエーションとよばれる統轄団体が生まれ、ベースボールはニューヨーク周辺からアメリカ全土へと広がり、大学のスポーツとしても普及した。
| 2. | プロチームの出現 |
1869年には最初のプロチームであるシンシナティ・レッドストッキングズ(のちのレッズ)が結成された。南北戦争がおわってわずか4年目のことだった。レッドストッキングズは翌70年にかけてアメリカ各地を遠征、地元のアマチュアチームを相手に連戦連勝し、ブルックリン・アトランティクスに延長11回7対8でやぶれるまで130連勝の快進撃をみせた。これがきっかけとなって各都市にプロチームが誕生し、71年にはプロ球団による最初のペナントレースがおこなわれてフィラデルフィア・アスレティックスが優勝した。その後、このプロリーグが発展的に解消し、76年8都市の球団が加盟してナショナル・リーグ(ナ・リーグ)が生まれた。82年にはアメリカン・アソシエーションが結成されたものの、解散、消滅をくりかえし、1900年にマイナー・リーグのひとつだったウェスタン・リーグが7球団によるアメリカン・リーグ(ア・リーグ)を創設、これが現在のア・リーグの基礎となり2リーグ時代が幕を開けた。
両リーグの優勝球団によるワールドシリーズは1903年にはじまり、第1回はナ・リーグ優勝のピッツバーグ・パイレーツがア・リーグ優勝のボストン・ピルグリムズ(のちのレッドソックス)と対戦、5勝3敗でピルグリムズが初代チャンピオンにかがやいた。初期の時代に、通算511勝をマークしたサイ・ヤング(レッドソックス)や416勝のウォールター・ジョンソン(セネタース)など球史に名をのこす名選手の登場が、大リーグを繁栄させ国民的娯楽として定着させた。
だが、1919年には球界をゆるがす八百長事件がおきた。この年のワールドシリーズで優勢といわれたア・リーグ優勝のシカゴ・ホワイトソックスがナ・リーグ優勝のシンシナティ・レッズに3勝5敗でやぶれたため、ホワイトソックスの選手たちが賭博師(とばくし)とくんで八百長に関与したといううわさが広まった。ランディス・コミッショナーが調査した結果、主力投手が八百長にかかわっていたことが発覚、天才的な強打者といわれたシューレス・ジャクソン外野手ら8人が球界から永久追放される不祥事となった。これが世にいう「ブラックソックス事件」である。
大リーグはあやうく社会的信用を失墜しかけたが、コミッショナーのきびしい裁定や、ベーブ・ルースのホームラン量産などでファンの信頼をよびもどした。1920年レッドソックスからニューヨーク・ヤンキースにうつったベーブ・ルースはいきなりシーズン54ホーマーをはなち、それまで野球に無関心だった人々も彼のホームランを一目みようと球場へつめかけた。こうして大リーグは危機をのりこえ、華やかな黄金時代をむかえた。20世紀前半の名選手として、タイ・カッブ(タイガース)、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ(ともにヤンキース)などがあげられる。
| 3. | 黒人選手の活躍 |
第2次世界大戦後の話題のひとつは、1947年ブルックリン・ドジャースのリッキー会長がファームのモントリオール・ロイヤルズから黒人のジャッキー・ロビンソン二塁手を登用して、大リーグ史上初の黒人選手を誕生させたことだった。はげしい人種差別の中でロビンソンは好成績をのこし、ナ・リーグの新人王を獲得した。これがきっかけとなって、ウィリー・メイズやハンク・アーロンをはじめ数多くの黒人選手が活躍することになった。
1950年代になると、大リーグのフランチャイズは交通機関の発達や生活の変化などによって大きくかわりはじめ、東部にかたよっていた球団が西へ西へと進出、ドジャースがニューヨークからロサンゼルスへ、ジャイアンツもニューヨークからサンフランシスコへ本拠地をうつし、大リーグは大西洋岸から太平洋岸まで北アメリカ大陸全般に広がっていった。このフランチャイズ移動によってファンは増大し、球団の数もしだいにふえていった。
1961年にはア・リーグ、62年にはナ・リーグがそれぞれ2球団をくわえ、それまでの8球団から10球団になった。69年にはア・リーグがカンザスシティ・ロイヤルズとシアトル・パイロッツ(現、ミルウォーキー・ブリュワーズ)をくわえ、ナ・リーグははじめてカナダにフランチャイズをおくモントリオール・エキスポズ(現、ワシントン・ナショナルズ)とサンディエゴ・パドレスをくわえて、両リーグともに12球団となった。これにともなってそれぞれのリーグが東西地区制をとり、地区優勝をはたしたチームによるリーグ優勝決定戦をへてワールドシリーズ7試合をたたかうようになった。
1977年には、ア・リーグにトロント・ブルージェイズとシアトル・マリナーズが誕生し、93年にはナ・リーグにも2球団がくわわって、14球団ずつの計28球団に。さらに98年にはタンパベイ・デビルレイズとアリゾナ・ダイヤモンドバックスをくわえて30球団になった。また、94年からは東、西、中の3地区にわかれ、1チーム当たり年間計162試合をおこなっている。地区優勝した両リーグの1位3チームとその3チームをのぞいてもっとも勝率の高い2位チーム(ワイルド・カード)をくわえた4チームでリーグ優勝決定戦(プレーオフ)をおこない、ワールドシリーズ(7試合4戦先取)でチャンピオンをきめる。
大リーグの下には選手養成のためのマイナー・リーグがあり、いちばんレベルの高い3A(トリプルA)から2A(ダブルA)、1A(シングルA)、ルーキーリーグがあり、1AはさらにハイA、A、ショートシーズンAにわかれている。マイナー・リーグ選手の待遇は3Aでも月給わずか数千ドルと極端に低いが、大リーガーになれば平均年俸が数百万ドルにものぼり、遠征の飛行機もファーストクラスと労使協定できめられている。
| 4. | 長期ストライキ |
一方、大リーガーの高収入が球団経営を圧迫してきているのも事実である。そのきっかけになったのは在籍6年以上の大リーガーが移籍の権利を行使できるというフリーエージェント制度である。この制度によって、球団に対し強い交渉権をえた選手たちの年俸が1970年代から一気にはねあがり、プロバスケットボールをぬいてNo.1になった。81年にはこの制度の更改交渉をめぐり選手協会と球団側が対立、選手は2カ月(714試合)にわたりストライキを決行した。さらに94年には、それまで60%弱だった球団の総収入に対する人件費の割合をあらかじめ50%ときめるサラリーキャップ制の導入を経営者側が提示、それを強硬に導入したことで事態が紛糾し、8月12日からストライキに突入した。このストにより、2度の世界大戦でもとぎれることのなかったワールドシリーズが中止され、公式戦669試合が中止となった。
つづく1995年も、シーズンインがあやぶまれるほど球界最大の危機にみまわれたが、オーナー側の譲歩でなんとか開幕にこぎつけ、アトランタ・ブレーブス(ナ・リーグ東地区)が38年ぶり、通算3度目のワールド・チャンピオンになった。このシーズンは、近鉄バファローズ(現、オリックス・バファローズ)から大リーグに挑戦した野茂英雄が大活躍し、ストの影響でファン離れをおこしかけた球界にひとつの話題を提供した。野茂の成績は13勝6敗、リーグ最多の236奪三振、オールスター・ゲームの先発投手もつとめ、ナ・リーグの新人王を獲得している。
1998年にはセントルイス・カーディナルスのマーク・マグワイアとシカゴ・カブスのサミー・ソーサが熾烈(しれつ)なホームラン王争いを展開。2人の記録がロジャー・マリスのもつ61本の記録に近づくにつれて全米が熱狂した。マグワイアは9月8日に大リーグ新記録となる62号をはなつと、最終的に70号まで記録をのばした。また、その記録にこそおよばなかったものの、ソーサも65本のホームランをうち、チームを地区優勝にみちびいたこともあってその年の最優秀選手にえらばれた。この2人の活躍によって、大リーグはストライキでうしなったファンを完全にとりもどした。
しかしマグワイアの大記録や、その後2006年に達成されたバリー・ボンズの通算ホームラン新記録が筋肉増強剤などの薬物によるものとの疑いが濃厚となり、07年には大リーグにおける薬物使用の実態調査「ミッチェル・リポート」によって、彼らのみならず数多くの選手の薬物使用が明らかになった。
| 5. | 日本人選手の活躍 |
野茂英雄によって日本人選手の大リーグ挑戦に道が開け、1997年にはオリックス・ブルーウェーブ(現、オリックス・バファローズ)の長谷川滋利、千葉ロッテマリーンズの伊良部秀輝、2000年には横浜ベイスターズの佐々木主浩の各投手があいついで大リーグ入りした。なかでも、「ハマの大魔人」の異名をもつセーブ王・佐々木は1年目から2勝5敗37セーブをあげてアメリカン・リーグ新人王にかがやいた。01年にはオリックスのイチロー、阪神タイガースの新庄剛志が野手としてはじめて大リーグに挑戦。とくにシアトル・マリナーズのイチローは、野手は通用しないとの通説をくつがえして1年目から大活躍。打率3割5分でアメリカン・リーグの首位打者など数々のタイトルを獲得した。その後も読売ジャイアンツの主砲、松井秀喜がニューヨーク・ヤンキースに入団するなど、日本のトッププレーヤーの大リーグ流出が続出し、日本のプロ野球界からは空洞化を危惧(きぐ)する声も出ている。
| 6. | ワールド・ベースボール・クラシック |
2006年(平成18年)3月には、大リーグ機構・選手会が主催するワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の第1回大会が開催された。これは国別対抗戦で、アメリカをはじめ、日本や韓国、ベネズエラ、ドミニカ共和国、メキシコなど16カ国・地域が参加した。1次リーグは4チームずつ4つのリーグにわかれてたたかい、上位2チームがアメリカでの2次リーグに出場、のこった4チームで決勝トーナメントをたたかった。大リーガーも参加する真の世界一決定戦といわれ、日本代表チームも松井秀喜の参加は実現しなかったものの、イチローら内外で活躍するプロ選手たちでチームを編成、監督は王貞治がつとめた。決勝は日本とキューバの戦いとなり、日本が優勝した。第2回大会は09年の開催を予定、その後は4年おきにつづけていくとしている。
| III. | 日本野球史 |
| 1. | 草創期 |
日本に野球をつたえたのは1871年(明治4年)、東京の大学南校(現在の東京大学)のアメリカ人教師H.ウィルソンといわれている。翌年には芝増上寺内の開拓使仮学校(のちの札幌農学校)でA.G.ベーツも試合のやり方をおしえている。野球は学生を中心に広がりはじめ、77年アメリカ留学から帰国した鉄道技師・平岡煕(ひろし)が新橋鉄道局に「新橋倶楽部」(愛称アスレチックス)を創設してからますます盛んになった。平岡はルールブックや用具などをアメリカからとりよせ、本場仕込みのベースボールを同僚たちにおしえた。一高(第一高等学校。現、東京大学教養学部)、慶応義塾、駒場農学校(現、東京農工大学農学部)、明治学院などの学生の間で流行したが、彼らの中にはこのクラブで指導をうけたものが多かった。ベースボールを野球と訳したのは一高の野球部員だった中馬庚(かなえ)で、「テニスはコートでプレーするから庭球、ベースボールはフィールドでおこなう競技だから野球とした」といわれている。それまでは「玉遊び」だとか「打球おにごっこ」などとよばれていた。
草創期にはストライクゾーンは目から胸までのハイボール、胸から腰までのフェアボール、腰から膝(ひざ)までのローボールの3つがあり、打者は自分のこのむ高さのボールを要求、投手も指定された所へなげなければストライクにはならなかった。四球(悪球出塁制)も最初は9球だったが、試合時間が長びくということで8球、7球とへっていき現在の4球になったのは1889年。バットも初期のころは羽子板のように平らだったのが、まるい棒ときめられ、長さ、太さが今のような規格になったのは96年のことである。ユニフォームもなく外野手は越中ふんどし、遊撃手などはゴロを後ろにそらさないようにはかまを着用していたという記述もある。
| 2. | 学生野球の全盛期 |
学生野球は当初、一高が無敵をほこり、学習院、慶応で3強を形成していたがその後早稲田が台頭、明治もくわわってすさまじい勢いで普及していった。初の早慶戦がおこなわれたのは1903年で、14年(大正3年)には早慶明による3大学リーグ戦がはじまった。その後法政大、立教大、東京帝大(現、東京大学)がくわわり25年(昭和元年)、現在のような六大学リーグ戦へと発展していった。2008年(平成20年)現在、全日本大学野球連盟にはこの東京六大学野球連盟をふくめ、26連盟が加盟。1952年(昭和27年)からおこなわれている全日本大学野球選手権でも最初は東京六大学の代表が優勝していたが、最近では東都大学リーグ、首都大学リーグ、仙台六大学リーグなどからも優勝チームが出るようになった。
→ 大学野球
現在の高校野球の前身である中学野球は、1915年(大正4年)に全国中等学校野球大会(夏の大会)、24年に全国中等学校選抜野球大会(春の大会)がはじまっている。また、第1回都市対抗野球は、27年(昭和2年)に12チームが参加しておこなわれ、満州クラブ(大連市)が優勝した。
→ 高校野球:社会人野球
学生野球の舞台となっている甲子園、神宮球場は1924、25年(大正13、14年)にあいついで完成。ラジオによる野球実況放送は25年にはじまった。
| 3. | 戦前のプロ野球 |
プロ野球が誕生したのは1935年(昭和10年)。前年ベーブ・ルースらのアメリカ大リーグ選抜チーム一行をむかえるために結成された全日本チーム(解散後大日本東京野球倶楽部(くらぶ))が母体となった。このとき来日した大リーグ選抜チームはルー・ゲーリッグ、ベーブ・ルース、ジミー・フォックスらスーパースターをそろえた史上最高のメンバーで、18戦全勝と全日本チームを一蹴している。大日本東京倶楽部は35年アメリカ遠征から帰国後、東京巨人軍と名称をあらためてプロ球団になった。つづいて大阪タイガース(現、阪神タイガース)が、翌36年には名古屋軍(現、中日ドラゴンズ)、東京セネタース、阪急(現、オリックス・バファローズ)、大東京、名古屋金鯱(きんこ)が名乗りをあげ、7球団によって日本職業野球連盟が結成された。この年2月9日におこなわれた巨人の第2回アメリカ遠征壮行試合、対金鯱戦が記念すべきプロチームどうしによる最初の試合となった。
初の公式戦は春秋の2シーズン制で、遠征中の巨人をのぞく6球団によってあらそわれ、セネタースが初優勝した。1936年5月4日の試合でタイガースの藤井勇がセネタース野口明投手からはなったランニングホーマーがプロ野球の第1号本塁打。秋には帰国した巨人もくわわって7球団による本格的なペナントレースがおこなわれ、巨人とタイガースが同率首位となり、決定戦の末巨人が優勝した。9月25日の対タイガース戦で巨人の沢村栄治がノーヒット・ノーランを達成、これもプロ野球はじめての記録となった。
こうしてスタートしたプロ野球は1937年にイーグルス、38年には南海(現、福岡ソフトバンクホークス)がくわわって9球団となり、37年秋、38年春とタイガースが連続チャンピオンになった。39年からは春秋のシーズン制が廃止され、現在のような長期1シーズン制が採用されて巨人が5年連続優勝している。
このころから戦争が深刻化、1940年には野球に関する英語の使用が禁止され、タイガースは阪神、イーグルスは黒鷲(くろわし)、セネタースは翼とあらためられ、43年には審判規則や用語もすべて日本語にかわった。ストライクが「よし1本」、アウトは「ひけ」、スコアボードのボールカウントもストライクのSが「振」、ボールのBが「球」、アウトのOが「無為」、ユニフォームも戦時色そのままに兵隊のカーキ色にかわり、選手たちも続々と戦地にかりだされていった。野球界にとってもっともくるしい時代だった。
| 4. | 戦後のプロ野球 |
1945年敗戦による平和の訪れとともにプロ野球は復活への歩みをみせはじめ、この年11月23日の東西対抗戦(神宮)が第1歩となった。このときデビューした大下弘は青バットでホームランの魅力をみせつけた。46年には8球団15回総当たり(1チーム105試合)のペナントレースが再開され、近畿グレートリング(南海が一時改称)が優勝。48年からは20回総当たり140試合となり、地方試合も数多くくまれてプロ野球人気は全国的に高まった。初のナイトゲームはこの年8月17日横浜ゲーリッグ球場での中日対巨人戦。
1949年には別所毅彦(南海)、本堂保次(太陽)の移籍問題などでシーズン途中から2リーグ分裂への動きをみせはじめ、50年日本野球連盟はついに解散。セントラル(8球団)、パシフィック(7球団)の2リーグに分裂した。両リーグ優勝チームによってあらそわれる日本シリーズはこの年からはじまり、パ・リーグ優勝の毎日オリオンズ(現、千葉ロッテマリーンズ)がセ・リーグ優勝の松竹ロビンス(現、横浜ベイスターズ)を4勝2敗でしりぞけ初の日本一になった。
2リーグ制移行後は、しばらく球団の解散、吸収合併がつづいた。その後も球団買収により新球団が誕生。経営母体、チーム名がかわったチームも多い。創設期からそのまま同じチームがつづいているのは巨人、阪神の2球団だけである。阪急も創立から参加した老舗(しにせ)球団だったが、1989年(平成元年)にオリックスに譲渡され、その名をかえた。巨人は1リーグ制時代に9回、2リーグ制になってからも32回のリーグ優勝を記録しており、球界の盟主といわれてきた。阪神との対戦は伝統の一戦として人気が高い。
1950年代のプロ野球は個性的な監督と選手を輩出して、ひきつづき国民的な人気をえている。51~53年(昭和26~28年)に水原茂監督の巨人が川上哲治、青田昇、千葉茂、別所毅彦、藤本英雄らを擁して3年連続日本一になった。56~58年は三原脩監督の西鉄ライオンズ(現、埼玉西武ライオンズ)が中西太、稲尾和久らの伝説的な選手によってシリーズ3連覇を達成。このときの、3連敗から4連勝した58年のシリーズは奇跡の逆転として、今も語り草になっている。
1960年代以後は65~73年に川上監督ひきいる巨人が9年連続日本一になり、不滅の記録をのこした。戦後のプロ野球を代表するプレーヤーである王貞治、長嶋茂雄はON砲といわれ、チームも「巨人、大鵬(たいほう)、玉子焼」とよばれるほど人気が高かった。巨人9連覇の後は、セ・リーグでは突出したチームがあらわれず、各チームに優勝のチャンスがめぐってきた。監督としては70年代の古葉竹識(広島)、90年代の野村克也(ヤクルト)が各4回の優勝、70年代から2000年(平成12年)までに長嶋茂雄(巨人)が5回の優勝を達成している。
パ・リーグでは1960年代に鶴岡一人監督の南海が3連覇、60~70年代前半には西本幸雄監督の阪急が4連覇をなしとげて黄金時代をきずいたが、日本シリーズでは巨人の前にやぶれた。ようやく75年(昭和50年)から上田利治監督の阪急が3年連続日本一にかがやいた。80年代から90年代にかけては広岡達朗監督、森祇晶監督の西武が圧倒的な強さをみせて13回のリーグ優勝、86年、90年(平成2年)から2度の3年連続日本一をなしとげた。
投手の個人記録では、完全試合が藤本英雄(巨人)をはじめ15人。金田正一(国鉄、巨人)の14年連続20勝をふくめた通算400勝、江夏豊(阪神)のシーズン401個の奪三振、オールスター・ゲームでの9打者連続三振などの記録が生まれている。打者では王貞治(巨人)の通算本塁打868本が世界記録をはじめ、福本豊(阪急)の通算1065盗塁、衣笠祥雄(広島)の2215試合連続出場といった大記録もうまれている。ほかにも戦後初の三冠王の野村克也(南海)、三冠王3回の落合博満(ロッテ)、シーズン最高打率3割8分9厘のバース(阪神)、7年連続の首位打者になったイチロー(オリックス)などの選手が活躍して数々の記録をぬりかえた。
| 5. | ドラフト問題とフリーエージェント制 |
有望選手の獲得合戦から契約金が高額となり、人気チームに力のある選手が集中して各チームの戦力が不均衡になったことから、1965年(昭和40年)にはドラフト制度(新人選択会議)が発足した。78年に法政大学のエース江川卓が、野球協約の盲点をついてドラフト会議の1日前に巨人と契約。結局、ドラフトで指名された阪神と契約した後、トレードのかたちで巨人に入団したが、社会的な非難をあびた。93年(平成5年)からは、1、2位指名枠の社会人と大学生にかぎり、希望球団を指名できる「逆指名」が可能になり、ドラフトの精神は事実上骨抜きにされた。しかし2004年、球団が希望球団に指名されるべく大学の選手に裏金をわたしていた事実が発覚し、それが契機となって08年から逆指名制が廃止された。
1985年(昭和60年)には選手の権利と生活向上をめざして、日本プロ野球選手会が労働組合として結成された。最低年俸の引き上げや、移籍の自由などをもとめて経営者側と交渉をつづけているが、93年(平成5年)に特別資格選手制度(フリーエージェント制度)を実現させ、選手の移籍が活発になった。
| 6. | プロ野球再編問題と史上初のストライキ |
2004年6月、パ・リーグのオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併話が浮上すると、10球団1リーグ制への移行などプロ野球再編をすすめる動きが活発になったが、選手会はこれに猛烈に反発。9月に両球団の合併が承認され(→ オリックス・バファローズ)、IT関連企業のライブドアが新規参入に名乗りをあげると、経営側と選手会側とで合併案の再検討や新規参入球団の受け入れをめぐる交渉がもたれたがこれが決裂。9月18日、19日の2日間にわたって日本プロ野球史上初となるストライキが決行され、公式戦が中止になった。その後日本プロフェッショナル野球組織(NPB)と選手会側がセ・パ12球団制の維持などで合意、以降のストライキはかろうじて回避された。
9月末になり、同じくIT関連企業の楽天も日本プロ野球組織への加盟を申請、NPBの審査の結果、最終的には楽天が新規参入球団にえらばれた。新球団誕生は1954年(昭和29年)の高橋ユニオンズ以来51シーズンぶり。仙台市に本拠をかまえる東北楽天ゴールデンイーグルスは東北初のプロ野球球団となった。また、2004年(平成16年)12月にはソフトバンクがダイエーから福岡ダイエーホークスを買収、福岡ソフトバンクホークスが誕生するなど、04年はプロ野球史上にのこる激動の年となった。
| IV. | 諸外国のプロ野球事情 |
| 1. | 韓国のプロ野球 |
韓国では、プロ野球が生まれる前から野球が盛んで、1963年(昭和38年)に東映フライヤーズ(現、北海道日本ハム)に入団し、75年には首位打者にもなった白仁天のように、韓国のアマチュア野球での実績がみとめられ、日本で活躍する選手もいた。
プロ野球は1981年に6チームでスタート。ドラフト1位指名選手は地元出身者にかぎるなど、きびしいフランチャイズ制度によって郷土意識をもりあげ、発足当初から人気をあつめた。2008年現在は、キア(起亜)、LG、SK、サムスン(三星)、トゥサン(斗山)、ハンファ(韓火)、ロッテ、ヒーローズの8チームが1シーズン制でたたかっている。年間126試合を消化した後、3、4位のチームで準プレーオフ(5回戦制)をおこない、その勝者が2位とプレーオフ(7回戦制)で対戦、そしてその勝者と1位チームが韓国シリーズ(7回戦制)をたたかって優勝チームを決定する仕組みになっている。
当初は外国人選手の加入は禁止されていたが、在日韓国人など韓国系選手については1球団3人までみとめられていたため、日本から巨人の新浦寿夫、広島カープの福士敬章などが移籍した。ちなみに新浦は3年間で54勝20敗3セーブの成績をのこしており、福士も移籍1年目に30勝をあげ最多勝を獲得した。
日本との間では、1983年に日韓間選手契約に関する協定をむすび、たがいに相手国の選手保有権を侵害しないことを約束している。このため、韓国にプロ野球が生まれてから日本で活躍する韓国人選手はなかなかあらわれなかったが、96年(平成8年)、高麗大学の趙成珉(チョ・ソンミン)が巨人と契約したのを皮切りに、中日ドラゴンズにも韓国ナンバーワン投手の宣銅烈(ソン・ドンヨル)が入団、97年には38セーブをあげる活躍をした。98年には同じ中日に「韓国のイチロー」といわれた李鐘範(イ・ジョンボム)が入団した。しかし、日韓間の協定にあいまいな部分が多く、明確なルールづくりが今後の課題になっている。一方、朴贊浩(パク・チャンホ)のように日本ではなく、また日本のプロ野球をへることなく直接大リーグで活躍する選手もいる。
| 2. | 台湾のプロ野球 |
台湾では日本の影響で戦前から野球が普及していた。戦後はリトルリーグの世界選手権、オリンピックなどで好成績をあげて、実力は世界的なレベルにある。日本のプロ野球界でも、郭源治(中日)、郭泰源(西武)、呂明賜(巨人)、大豊泰昭(中日、阪神、中日)などがチームの主力として活躍した。
台湾のプロ野球は、1990年に中華職業棒球連盟が創立され、4チーム、2シーズン制でスタート、93年に2チーム、97年にはさらに1チームがくわわり、所属球団は7チームになった。同年には台湾職棒大連盟(4球団)が発足して2リーグ制となり、郭源治や呂明賜も日本からもどってプレーした。しかし、96年、野球賭博にからむ八百長事件が発覚し、逮捕者が大量に出た中華連盟の1チームが解散。この事件以後、観客動員数は減少し、プロ野球の人気は低迷。その後両連盟ともに4球団となり、試合数も年々減少、2003年には両連盟が合併して中華職業棒球大連盟が誕生した。
2008年の所属チームは興農牛、中信鯨、La New熊、兄弟象、統一獅、米迪亜(メディア)暴龍の6球団で、前期、後期それぞれ50試合、計100試合がおこなわれ、プレーオフをへて7回戦制のチャンピオン・シリーズがたたかわれた。しかし08年秋、暴力団の野球賭博組織とくんで八百長試合をおこなった不祥事によって米迪亜が解散においこまれ、中信も観客減による経営不振で撤退したため、09年は4チームで運営するというきびしい状況になった。
| 3. | その他の国の野球 |
アメリカの影響で、カリブ海沿岸諸国では野球が盛んである。キューバは1992、96年にオリンピック連覇をはたすなど、アマチュアでは実力世界一だが、亡命して大リーグ入りする選手が跡をたたない。また、ドミニカ共和国では30年代からプロリーグがはじまり、大リーグに入る選手も多く、若手の教育リーグや野球アカデミーには日本から広島東洋カープが参加している。このほか日本の影響をうけたブラジル、阪神の吉田義男監督が指導したフランスなどにも野球は広がっている。