| 検索ビュー | 日本美術 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
日本の美術は長い期間にわたって大陸の美術の影響をうけつづけてきた。大陸の先進的な技法や様式は最初は模倣のかたちで受容され、しだいにそれは緩やかに同化変容されていく。この過程のうちにこそ日本美術のオリジナリティがある。
日本美術の中に形成されていった性格のひとつに観念的世界よりも感覚の美を愛好する精神があり、それはしばしば装飾する意思とむすびつく。しかし最大の特質は自然の中に心を投影し、そこに抒情をみいだす繊細な感性であろう。日本人にとって自然は人間と対立し、人間が征服する対象であるよりも、むしろ親和する対象であった。日本の美術家たちは自然の美を貴重な糧とし、そこへたちかえっていく。日本美術の中に自然をモティーフにして装飾性と抒情性とがみごとに融合した例をみつけだすことは、そうむずかしいことではない。絵画と工芸のジャンルの中にそれはとくに鮮やかである。
| II. | 縄文・弥生・古墳時代の美術 |
| 1. | 縄文時代 |
縄文時代は前1万年ごろから弥生時代のはじまる前300年ごろまでの間に日本のほぼ全域に広がった新石器時代を総称する。この時代の美術をもっとも特色づけているものが縄文土器である。その名称は土器の表面に繊維をよった縄をおしつけるようにしてつけられた装飾文様に由来する。縄文人の生活は狩猟や漁労を中心とする採集文化であったが、しだいに小規模ながら集落が形成され、列島の温暖化にともなって定住化がすすんでいった。縄文土器も生活環境の変化を反映して器種のレパートリーは豊かになり、その大きさは多様化し、装飾文様も複雑化してゆく。
装飾への意欲の高まりは中期になって最高潮に達する。関東から中部地方にかけてボリューム豊かな彫塑性をしめす勝坂式土器、新潟県には炎がもえあがるような華麗な装飾から火焔土器と称される馬高(うまだか)式土器が出現する。こうした豊饒(ほうじょう)な装飾性は後期以降は沈静化し、器本来の機能性を重視したものになっていく。この傾向は沈滞というよりは装飾の一種の洗練化とみるべきで、後期には黒い光沢の肌をもつ磨研土器が普及する。土器のほかに注目すべきは土偶である。装飾性が頂点に達した中期には彫塑的な土偶がみられ、後期以後はみみずく土偶、眼鏡をかけたような遮光器土偶もあらわれて、これらは呪術的色彩が濃厚である。
縄文美術は外来文化の影響が少なかったために、1万年近い長期にわたる変遷は比較的緩やかなものであった。縄文という装飾法もほぼ全期間を通じてもちいられ、縄文美術は世界の新石器時代の美術の中でも特筆すべき洗練に達したのである。
| 2. | 弥生時代 |
前300年ころ、西日本を中心に本格的な農耕文化がはじまり、また鉄器もつたえられた。金属期文化の誕生である。戦前、東京本郷弥生町で発見された壺から命名された弥生時代は、紀元300年ころまでつづく。農耕は社会に大きな変革をもたらした。稲作によって規則的な生活がいとなまれ、集落は拡大し、農産物の蓄積は貧富の差を生じた。それは権力の誕生につながっていく。
弥生土器の文様は簡素で規則的、あくまでも器の美しさが特色で、装飾はその形と機能をそこなうことがない。後期にはしだいに無文様化し、古墳時代の土師器(はじき)へと接近してゆく。弥生美術を特色づけるものに青銅製の銅鐸がある。これは宗教的な儀礼に使用されたものとされる。西日本を中心に出土しており、堂々たる大型のものに発展していく。装飾は流水文と袈裟襷文(けさだすきもん)が典型的なもので、人や動物の姿、建物などが記号的に表現されている。流水文のよどみない美しさは、のちの日本美術の特質となる自然をみつめる感性に遥かにつながっているようである。弥生時代の土器や銅鐸の整然とした形は呪術性のこい縄文土器とはすでに異質の世界である。
| 3. | 古墳時代 |
3世紀の末から4世紀の初めにかけて古墳の造営がはじまる。このころから日本に仏教が伝来した6世紀ごろまでが古墳時代である。集落は大規模なものになり、階級が生まれ、複数の集落を首長が統治している。古墳はその支配者の墳墓であり、支配者をあつくとむらうとともに亡き支配者の権力をつぐ者の新たなる権力を誇示するものであった。多彩な副葬品を生んだ古墳時代の美術は葬礼の美術の性格をもっていた。
特徴的なものにまず埴輪がある。埴輪は中空の素焼きで、古墳を神聖な区域として区切るために墳丘の周りにめぐらされた。そのおもな種類には円筒埴輪や形象埴輪があり、家の形や武具をはじめとして多彩である。とくに動物や人物の素朴な表情は、一種のユーモアをたたえて古代人の感性を素直につたえている。土器には古墳時代の初期に素焼きの土師器がみられ、中期には朝鮮半島の製陶技術がつたわって、よりかたく焼きしめた須恵器があらわれている。
一方、日本最古の絵画資料として装飾古墳があげられる。これは石室の壁面や石棺を装飾するもので、幾何学的な文様の壁画をもつ熊本のチブサン古墳のように、壁画は九州に多く分布している。なお、石人山(せきじんやま)古墳の石棺などにきざまれた特徴的な文様に直弧文がある。これは直線と弧線とを複雑にくみあわせた日本固有の文様で、銅鏡などにももちいられている。
この時代、大陸からの文物の影響は弥生時代とは比較にならないほど増大する。4世紀半ば以後には、畿内に大和朝廷が成立し、統一国家の誕生をもって大陸文化の巨大な波をうけとめる器ができあがった。
| III. | 飛鳥・白鳳時代の美術 |
この時代は朝鮮半島の百済から仏教が伝来したとされる538年(宣化3)から662年(天智帝の初年)までの前半期を飛鳥時代とし、以後藤原京をへて710年(和銅3)の平城京遷都までの後半期を白鳳時代とする。仏教が伝来するとともに大化改新以後に律令制の整備がすすみ、造寺造仏が積極的におこなわれたことが、この時代の美術の大きなエネルギーとなった。仏教美術誕生の時代である。
| 1. | 建築 |
仏教寺院の本格的な造営は、仏教の伝来から約半世紀にわたる宗教をめぐる抗争をへてはじまった。この間、仏像などとともに造仏工や造寺工などの技術者が朝鮮半島から渡来している。最初の仏教寺院は、蘇我馬子の発願によって6世紀の末に造営が開始され、7世紀初頭に完成した飛鳥寺である。百済からの渡来工人が造営にあたった伽藍は塔を中心に三方に金堂を配したもので、その配置は高句麗に例がみられる。ついで聖徳太子が四天王寺を創建したが、これは中門、塔、金堂、講堂を南北に一直線にならべた伽藍配置で、朝鮮半島に例が多い。そして607年(推古15)ころ聖徳太子によって創建されたのが法隆寺である。現在の法隆寺は7世紀後半に焼失したのち白鳳期に再建されたと一般的に考えられているが、創建法隆寺の面影をとどめる飛鳥風で、西院の金堂、五重塔などは世界最古の木造建築である。
律令制が充実する白鳳時代になると、それまでの豪族の氏寺にかわり、各地から労働力を徴用して国家による大規模な官寺の造営が本格化し、最新の様式が導入される。天智天皇の発願で7世紀後半には飛鳥に最初の初唐様式をとりいれた川原寺が完成する。ここでは建築の設計にもちいられる尺度はそれまでの高麗尺にかわる唐尺である。7世紀末には藤原京に薬師寺が完成している。伽藍は金堂を中心に東西2塔を配するものであった。また藤原京にあって西南の薬師寺に対して東南に位置したのが大官大寺である。
| 2. | 彫刻 |
はじめて仏教美術の洗礼をうけた飛鳥時代の彫刻は、朝鮮半島を経由した南北朝時代の様式の強い影響をしめしており、つづいて白鳳時代には隋、初唐の影響がみとめられる。
7世紀の初め、飛鳥寺におさめられた釈迦如来像は日本初の丈六の大金銅仏である。通称飛鳥大仏、作者は渡来人の子孫、鞍作止利と「日本書紀」はつたえる。623年完成の銘がある法隆寺金堂釈迦三尊像は止利の代表作で、その正面観照性と口元にたたえた神秘的な微笑を思わせる表情は飛鳥様式の典型である。衣文(えもん)の表現は形式的といえるほどによく整理されており、全体の抽象的な印象を強めている。大陸の様式はすでに理知的に消化されているのである。
白鳳初期の金銅仏に野中寺弥勒菩薩半跏像がある。つづく興福寺仏頭はかつて山田寺講堂の本尊だったもので、頭部だけをのこしているが、ボリューム豊かな白鳳金銅仏の代表作である。白鳳期には法隆寺献納宝物中の四十八体仏をはじめ小金銅仏に優品が多く、法隆寺阿弥陀三尊像(橘夫人念持仏)や同夢違観音像などのあどけない童顔童子形が共通している。
木彫の最古の例は法隆寺夢殿の観音菩薩立像、通称救世観音(ぐぜかんのん)である。クス材の一木造で、その目鼻立ちの強さは表情に厳かな緊張感をあたえ、しかも釈迦三尊像にもまして神秘的である。法隆寺金堂四天王像は銘文から作者は山口大口費(やまぐちのおおくちのあたえ)とされ、7世紀中ごろの作。法隆寺百済観音像は同じころの木彫で、流麗なプロポーションをもったエキゾティックな異色の作風は中国南朝系の影響が考えられている。
7世紀後半、白鳳時代に入って法輪寺薬師如来像と虚空蔵菩薩像があり、そのやわらいだ質朴な表現は飛鳥風をとどめている。法隆寺の六観音像と同金堂の天蓋天人像は小金銅仏に通じる童顔童子形をしめしている。そして中宮寺弥勒菩薩像の瞑想する表情と調和のとれた姿勢の穏やかさは飛鳥・白鳳彫刻のもっとも成熟した姿である。ながれおちる衣文も自然で、写実にむかってさらに一歩がふみだされている。
白鳳時代にはより写実的な表現に適した塑造と脱活乾漆造が新たな造像技法としてもちいられている。当麻寺金堂の弥勒座像は塑像で、同じ金堂の四天王立像は麻布を漆ではりかさねて型をつくり木屎漆(こくそうるし)をもって整形する脱活乾漆造である。これは天平時代に入ると造像の主流になっていった。
| 3. | 絵画・工芸 |
6世紀の末、飛鳥寺造営のために百済から画工が渡来し、7世紀初めには高句麗の僧曇徴が来朝して顔料や紙、墨の製法をつたえた。さらに聖徳太子の時代には渡来系の画家組織が活動していたことが知られている。
最初の絵画的作品の例は623年の法隆寺金堂釈迦三尊像の須弥座(しゅみざ)と、同じころの中宮寺「天寿国繍帳」である。須弥座は損傷はなはだしいものの四天王や山岳風景に飛天や神仙が描かれているのがみとめられる。一方の天寿国繍帳は聖徳太子の死をいたんで太子の往生した世界をあらわした刺繍で、原画を描いた3人の渡来系の画工の名が知られている。人物の服装に当時の日本の風俗もとりいれられている点が注目される。7世紀半ばの法隆寺玉虫厨子の須弥座と宮殿部には、漆絵と一種の油絵である密陀絵(みつだえ)を併用した技法で、仏教説話図などが描かれる。なかでも「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」は物語の一連の3つの場面を同一の構図に巧みにおさめた作品で、大陸の影響は濃厚であるにしても日本の画工の高い水準をしめしている。
白鳳絵画としては7世紀後半の法隆寺金堂壁画(1949年の火災でその大部分が損傷をうけた)が初唐様式をつたえる本格的な絵画作品で、諸仏の肉身表現は西域の陰影法をとりいれている。それは大陸様式を消化して模倣をこえ、真の古典のみがもつ気品にみちている。初唐の絵画様式をつたえ、古墳壁画の伝統の最後をかざるものに奈良明日香村の高松塚古墳壁画がある。700年前後の作とみられ、仏画としても風俗画としても完成度の高い貴重な資料である。
この時代は盛んな寺院の造営と造仏にともなって仏教工芸も開花した。法隆寺金堂の木造天蓋は奏楽の飛天や鳳凰とともに荘厳の空間をつくりだした初期の例で、法隆寺再建期にさかのぼる。法隆寺玉虫厨子の入母屋造(いりもやづくり)の宮殿部はミニチュアながら建築としても飛鳥様式をしのばせるものであるが、随所に高度な工芸技法がうかがわれる。外側は黒漆塗りで、金銅の透彫(すかしぼり)金具の下には当初は玉虫の翅がしきつめられていた。内部には金銅押出しの千仏像がはられている。金工には宝石をちりばめた夢殿救世観音の金銅透彫宝冠と法隆寺献納宝物中の金銅灌頂幡(かんじょうばん)がある。染織には中宮寺天寿国繍帳とともに法隆寺献納宝物に蜀江錦(しょっこうきん)の小幡がある。
| IV. | 天平時代の美術 |
平城京へ遷都した710年から、784年(延暦3)の長岡京遷都をへて794年に都が平安京にうつされるころまでを、中心となった天平年間(729~49)の名をとって天平時代とよぶ。歴史区分の奈良時代にほぼ相当する。律令制の中央集権化は巨大な富を新都に集中させ、そこに貴族的な文化が花開く。前代からはじまっていた遣唐使のたび重なる派遣によって日本は国際的な唐の文化に直接ふれることになった。そうした美術文化を主導したのが国家が組織する官営工房である。
| 1. | 建築 |
平城京には薬師寺、大安寺(大官大寺)、元興寺(飛鳥寺)などの官寺や、藤原氏の氏寺である興福寺など多くの寺院がうつされてきた。わずかに現存する薬師寺東塔は各層に裳階(もこし)をつけた優雅な三重塔で白鳳時代の様式を踏襲しているが、移転に際して大安寺などほかの寺院の多くは旧地の伽藍配置を変更し、唐の新たな建築様式を採用している。
741年(天平13)、聖武天皇は国ごとに国分寺・国分尼寺造営の詔(みことのり)を発し、ついで造東大寺司をおいて平城京の東に東大寺の巨大伽藍造営が開始される。伽藍の中心である大仏殿(金堂)は752年(天平勝宝4)の大仏開眼供養にはすでに完成しており、創建時の規模は正面88m、高さは50mに近い壮大なものであった。法華堂、転害門、正倉院正倉は8世紀中ごろの建立である。
斑鳩(いかるが)では再建法隆寺の東院夢殿などが同じ時期のものである。758年(天平宝字2)には、唐僧鑑真が唐招提寺を創立。天平後期に建立された金堂は、天平時代の伽藍の金堂としては現存する唯一のもので、正面の柱間を吹放しとする開放的な構造をもち、荘重な天平建築の完成された姿をしめしている。そのほか天平後期の建築には唐招提寺講堂、新薬師寺本堂、当麻寺東塔などがある。
| 2. | 彫刻 |
平城京遷都にともなう諸寺院の移転造営と東大寺の伽藍造営により、造仏界は活況を呈し、天平彫刻は盛唐様式の直接的な影響のもとに展開していく。この時代にはとりわけ塑像と乾漆像が盛んであった。塑像の初期の例に、遷都翌年に完成した法隆寺五重塔塔本塑像がある。岩窟に配された群像によって仏典の諸場面が展開され、身振り、感情表現も豊かで前代よりもすすんだ写実がみとめられる。一方、金銅の薬師寺金堂薬師三尊像には藤原京からうつされたとする説もあるが、のびやかな人体表現や相貌には一種の理想化がくわえられており、白鳳期とは一線を画する完成度を感じさせる。その傾向は同寺の東院堂聖観音立像にもみられる。天平年間に入って興福寺の乾漆十大弟子・八部衆像がある。とりわけ八部衆像の少年のような表情はニュアンスにとむ人間的な感情が印象的である。
東大寺法華堂は天平彫刻の宝庫である。8世紀中ごろに属する乾漆・塑像群のうち本尊不空羂索(ふくうけんじゃく)観音像は三目八臂、その超越的な姿はこの時期にはじまる雑部密教系の変化観音である。ほかに梵天(ぼんてん)・帝釈天像、四天王像、憤怒(ふんぬ)あらわな執金剛神像、日光・月光菩薩立像がならび、この深い静けさの中に天平彫刻の古典主義の成果がみられる。同寺戒壇院にはもうひとつの四天王像がある。また天平年間造像の新薬師寺十二神将立像は、古典的調和をたもちながら東大寺諸像とはことなり、豊かな動勢には洗練された軽やかさが感じられる。
鑑真の来朝は、新たな中国の様式をつたえて後期の天平彫刻に転回をもたらした。唐招提寺金堂盧舎那仏(るしゃなぶつ)座像は、切れ長の大きな目でみすえるするどい相貌と波うつ衣文の質感が特徴的で、次の時代を予告するものがある。同寺の鑑真和上座像は8世紀半ばの作、和上が没する直前の姿をうつしたものとされ、人間性にまで肉薄することのできた最初の肖像彫刻である。唐招提寺にはまた一群の木彫像がある。木彫は天平前期には影をひそめていたが、ここにあらわれた充実したボリューム感あふれる体躯の諸像は、天平の古典様式とはやや異質のものである。木彫の復活には、鑑真とともにもたらされた檀像(だんぞう)彫刻の技術が背景にある。檀像は本来白檀などの香木をもちいるが、日本ではヒノキなどを代用して檀像様を形成してゆく。この時代の後半にはじまる木心乾漆の代表作は聖林寺十一面観音像で、ヒノキの一木式、ひきしまった胴ともりあがる胸は緊張感にみちて、天平後期の水準をしめしている。
天平彫刻は唐の様式の推移を敏感に反映しながら前代からの写実をいっそうすすめ、一方で理想化がこれとせめぎあうようにして古典主義の頂点に達した。
| 3. | 絵画・工芸 |
遷都後、各寺院の堂内の荘厳(しょうごん)などのために絵画の需要は増大した。それらの仏教絵画の制作を担当したのは官営の専門の組織に属する画家たちであり、また造東大寺司に属する画家であった。彼らの制作もまた唐の様式や技術の強い影響下にあった。
大寺院の堂内の壁面をかざったのが大画面の繍仏(しゅうぶつ)である。これは画家が描いた原画をもとにつくられた刺繍である。「刺繍釈迦如来説法図」は釈迦如来を中央に多くの諸菩薩、飛天を配した複雑な構成である。当麻寺につたわる綴織(つづれおり)の「当麻曼荼羅(まんだら)」も壮大な阿弥陀浄土図を構成している。純粋な絵画資料としては「釈迦霊鷲山説法図」がある。東大寺法華堂根本曼荼羅としてつたわったもので、釈迦が深山幽谷(しんざんゆうこく)を背景に法華経を説く場面を描く。
一方では「絵因果経」という経巻が盛んにつくられた。これは釈迦の伝記を説いた「過去現在因果経」の経文を下段に、絵を上段に対応させたもので、その伝統は中世までながれこんでゆく。薬師寺「吉祥天像」は仏画ではあるが正装した唐風の美人を描いて風俗的な興味をさそう。繊細な線描と濃厚な色彩は天平絵画の円熟をしめしている。
仏画ばかりではなく宮廷のための絵画も制作された。正倉院の「鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)」は豊満な樹下美人を描く風俗画で、当初は部分に鳥の羽毛が貼付されていたために、この名がある。
天平時代の工芸を代表するのが正倉院宝物である。これは756年に聖武天皇の遺愛の品を光明皇太后が東大寺大仏に奉献したことにはじまり、そのコレクションは金工、木工、漆工、陶磁器、染織、ガラスなどあらゆる工芸のジャンルにおよぶ。唐の請来品、日本製ともにその技術は最高水準にあり、多彩な意匠はシルクロードがつなぐ唐とペルシャとの深い文化交流をしめしている。
正倉院につたわる書に光明皇后が写した「楽毅論(がくきろん)」がある。当時唐で流行した東晋の名筆王羲之の筆にまなんだもので、その王羲之風は日本でもっともとうとばれることになった。この時代は経典の書写も盛んにおこなわれ、聖武天皇の宸翰(しんかん)とつたえられる大聖武(おおじょうむ)などがある。
| V. | 平安前期の美術 |
794年の平安京遷都のころから源頼朝が伊豆に挙兵する1180年(治承4)ころまでの約400年が平安時代である。このうち遣唐使が廃止される9世紀末を境に前半を弘仁・貞観時代、以後を藤原時代とする区分もあるが、ここでは藤原氏が摂関政治を完全に掌握するきっかけとなる安和の変(969:安和2)のころを区切りとして、それまでを前期、以後を後期とする。
前期は前代につづいて唐風の文化の受容がすすみ、空海が真言宗、最澄が天台宗を開くなど、入唐僧(にっとうそう)がもたらした密教が仏教文化に新風をふきこんだ。一方で遣唐使の廃止は中国との公式ルートを閉ざすこととなり、美術文化にも国風化の兆しがあらわれるようになる。
| 1. | 建築 |
平安京遷都では寺院の移転はおこなわれず、遷都後まもなく東寺、西寺の2寺が建立されたのみであった。この時代に特徴的な密教寺院は、修行を重視しておもに山中に伽藍がつくられた。最澄の比叡山延暦寺、空海の高野山金剛峰寺、それに神護寺、室生寺などである。堂塔では天台宗の法華堂、常行堂、真言宗の灌頂(かんじょう)堂、五大堂、両宗派に共通する多宝塔などの新しい建築の形式が生まれている。山中の密教建築の例が室生寺五重塔と金堂である。五重塔は古代・中世の五重塔としてはもっとも小さく、屋根を檜皮(ひわだ)でふいて、初重内部に床板をはる。中国式では屋根は瓦葺(かわらぶ)き、床は石敷などであるからこれは日本的な要素といえる。金堂も内部は床板をはり、正面に庇をつけて礼堂をもうける。
9世紀後半からは天皇の御願によって大覚寺、仁和寺、醍醐寺などの規模の大きな寺院が造営される。醍醐寺では山上伽藍につづき10世紀前半に山下伽藍が造営された。五重塔は平安前期に創建されたもので、初重の心柱(しんばしら)の囲い板や板壁などには両界曼荼羅や真言八祖像などの仏画が描かれ、華麗な装飾文様とともに塔内を荘厳(しょうごん)している。
| 2. | 彫刻 |
まず前代後半に復活した木彫が彫刻の主流となる。新薬師寺薬師如来座像と神護寺薬師如来立像はともに8世紀末の一木造。ともに深い衣文の彫りと重量感、威圧的な相貌をもち、その翻波式(ほんぱしき)衣文の律動的な表現は平安前期を特徴づけるものである。興福寺北円堂の四天王立像も8世紀末の作。伝統的な木心乾漆であるが、表情、ポーズにみられる独特のユーモアと誇張は、すでに天平の古典の気分ではない。
9世紀の前半、真言密教の彫像群があらわれる。平安京の東寺は空海に下賜(かし)され、名を教王護国寺とあらためられた。その講堂の21尊は多くは乾漆を併用した木彫像。空海の指導のもとに仁王経曼荼羅を彫刻によって構成するもので、没後まもない839年(承和6)に完成している。とくに五大明王像の憤怒の造形や梵天像の官能性ただよう異国的な表現は、講堂の密教的空間の中でも際だっている。これにつづく大阪・観心寺の如意輪観音像の官能性はあやしいまでに高まっている。神護寺五大虚空蔵菩薩像も同じころのものである。真言密教系以外では法華寺十一面観音立像が檀像の系統に属する一木造で、インド僧が光明皇后の姿をうつしたという伝説にふさわしい異国的な雰囲気と豊饒(ほうじょう)な肉付けは、真言密教像にも通じるものがある。天台密教系には滋賀・向源寺の十一面観音菩薩立像があり、完成度の高い造形をしめしている。
9世紀末ころの仁和寺阿弥陀三尊像、清凉寺阿弥陀三尊像、さらに10世紀に入って醍醐寺薬師三尊像には、威圧感が後退して穏やかな雰囲気が生まれはじめる。それは室生寺金堂伝釈迦如来像の装飾性に接近してゆく傾向とともに、平安時代後期の和様を予感させる。
そして神仏習合の中から、この時代に神像彫刻が誕生した。薬師寺休丘八幡宮(やすみがおかはちまんぐう)の僧形八幡・神功皇后・仲津姫三神像がその代表的な例である。
| 3. | 絵画 |
密教彫刻と呼応して時代をあざやかにいろどるのは密教絵画である。曼荼羅は密教の根本思想を総合的にイメージとして表現するもので、密教の修法の本尊である。空海が唐から請来した両界曼荼羅は胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅をあわせたもので、原本はのこらないがそれを手本とした最古の遺品が9世紀前半の神護寺「両界曼荼羅」である。通称高雄曼荼羅、紫の綾に金銀泥(きんぎんでい)の線描のみで図像が描かれている。彩色本では東寺の「両界曼荼羅(伝真言曼荼羅)」が9世紀後半の作とされ、表情も豊かな諸尊を描きだす強烈な彩色は、異国的で濃厚な密教的宇宙を現出させている。十二天像は方位を守護する密教の護法神で、おおらかな表現の西大寺(さいだいじ)「十二天」は初期の例である。密教特有の憤怒尊には、不動明王のはやい例として園城寺の秘仏「不動明王像」があり、黄不動と通称される。肖像画では空海が請来した真言五祖像に新たに2像をくわえた「真言七祖像」が東寺にのこる。室生寺金堂の壁画「伝帝釈天曼荼羅」は、純粋密教画ではない雑部密教系の作例。同じく板絵に醍醐寺「五重塔初重壁画」があり、図様、彩色ともに穏やかな印象は平安後期につながる。
一方世俗的な絵画では、宮廷を中心にして唐風の題材を描いた山水画などが流行し、それらの唐絵(からえ)に対して日本的な風景や風俗を描くやまと絵が平安前期に誕生したことが文献の上では知られている。季節の風俗を屏風などに描いた月次絵(つきなみえ)のことは和歌にもよまれ、新しい様式の出現が推測されているが、作品は現存しない。
| 4. | 工芸 |
工芸では空海が請来した金銅密教法具が金工に新たな分野を開くが、それが和様を展開するのは次の時代をまたなければならない。その空海請来の経典、三十帖冊子をおさめるためにつくられた仁和寺の宝相華迦陵頻伽蒔絵冊子箱(ほうそうげかりょうびんがまきえさっしばこ)は919年(延喜19)の作で、年代の確実な最古の蒔絵である。素地を乾漆でつくり、金銀の研出(とぎだし)蒔絵で律動感豊かに文様を描きだしている。
書では前代につづいて唐風の書風がこのまれ、能書家として空海、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)が三筆として知られる。空海には、最澄にあてた「風信帖(ふうしんじょう)」などがある。
| VI. | 平安後期の美術 |
平安後期の美術文化の傾向を支配するのが和様である。遣唐使の廃止と唐の滅亡によって文物流入の巨大な波はいったんせきとめられ、蓄積されたエネルギーは国風化の方向で熟成を深めていった。律令制度は衰退し、かわって藤原氏の摂関政治、上皇による院政がおこなわれ、そこに華麗な王朝文化の花が開いて和様が展開する背景となった。11世紀になると末法思想が広まり、それは極楽浄土への憧憬を高めて浄土教美術がおこる。時代の末期、政権を掌握するのは新たに台頭した武士集団平氏で、彼らが王朝文化の最後の継承者であった。2世紀にわたって展開、完成された王朝文化こそ、以後の日本の美術文化が目標とし、あるいは挑戦した新たなる「古典」であった。
| 1. | 建築 |
藤原氏は平安後期の初めの1世紀余りの政治を支配したが、なかでも道長、頼通2代の時代にその権勢は頂点に達した。道長が京都に建立した阿弥陀堂(1020)、金堂(1022)、薬師堂などの諸堂がたちならぶ法成寺のさまは、あたかも極楽浄土が現出したかのような壮観を呈していたとつたえられる。1053年(天喜元)、道長の宇治の別荘の地にその子頼通が建立したのが平等院であり、池の中島にたつ阿弥陀堂は鳳凰堂とよばれる。軒を大きくはりだした優美な姿は完成された和様をしめし、阿弥陀如来座像を中心に堂内を荘厳する洗練された装飾的空間とともに、日本的な美意識の典型にかぞえられる。
この時代、浄土信仰の高まりによって普及した阿弥陀堂には、ほかに浄瑠璃寺本堂がある。これは現存する唯一の九体阿弥陀堂で、本堂の前の園池は浄土庭園の一例である。阿弥陀堂の形式は地方にも広がり、福島県の願成寺阿弥陀堂や平泉の中尊寺金色堂がある。奥州の藤原3代は数々の仏堂を造営し、なかでも秀衡の建立した無量光院はほぼ平等院鳳凰堂を模したものであったといわれるが、中尊寺金色堂のみが現存する。
なお、平安時代には貴族の住宅として寝殿造の存在が知られているが、その遺例はない。
| 2. | 彫刻 |
仏教彫刻においても和様は静かに熟成していった。木彫は従来の一木造にかわって本格的な寄木造が成立する。寄木造は大型の造仏を容易にし、分業によって大量の注文にもこたえられる、経済的にも効率の高い大きな技術的革新であった。
道長の法成寺造営のおり、九体阿弥陀像を制作した仏師が康尚(こうじょう)である。彼は和様化の展開に大きな役割をはたした仏師とされるが、康尚作と推定できるものは同聚院不動明王像のみである。平安前期の密教の憤怒相の激しさはやわらげられ、穏和な作風は和様の進行をしめすものである。この康尚の子で、法成寺の造仏にも参加したのが和様彫刻の大成者、定朝である。平等院鳳凰堂阿弥陀如来座像は定朝晩年の1053年の作で、完成された寄木造によって生みだされている。中国の直接的な影響はここにはなく、その穏和な相貌、優美な衣文、誇張のない自然な姿は完璧な調和のうちにある。堂内長押(なげし)の壁面をかざる一群の雲中供養菩薩像も、定朝とその工房の制作である。
定朝のきずいた様式は後継者をえて広がり、定朝様として規範化されていった。そこからは院派と円派、奈良仏師の系統が生まれ、3者とも定朝様をつたえていく。定朝様に属する作品には、浄瑠璃寺本堂の九体阿弥陀像、11世紀末の法界寺阿弥陀如来像、12世紀の法金剛院阿弥陀如来像などがある。いずれも貴族的な趣味にこたえる繊細な作風であるが、以後は次第に形式化にかたむいていった。その中で長岳寺阿弥陀三尊像はボリューム感にとみ、表情も個性的で類型化をまぬがれている。作者は奈良仏師の系統とされており、その清新な表現は奈良仏師の系譜がやがて鎌倉彫刻の新様式をきりひらいたことを考えるとき象徴的である。また平安時代の最末期に属する作品に円成寺大日如来座像があるが、作者は若き日の運慶である。
| 3. | 絵画 |
平安後期は仏画の最盛期であった。11世紀の作例に平等院鳳凰堂の扉絵や青蓮院「不動明王二童子像(青不動)」、金剛峰寺の「仏涅槃(ねはん)図」などがある。このうちはじめて本格的な来迎図を主題とした鳳凰堂扉絵は仏画ではあるが、四季の風物が抒情的に描きこまれており、初期のやまと絵のようすを想像することができる。その意味では広がりのある風景を表現した東寺伝来の唐絵「山水(せんずい)屏風」の存在も貴重である。12世紀前半の仏画には装飾性豊かな「十二天像」(京都国立博物館)、明王としてはむしろ優美な東寺の「五大尊像」があり、「普賢菩薩像」(東京国立博物館)の工芸的な精緻をきわめた表現は耽美的とさえいえる。12世紀の後半の醍醐寺の「訶梨帝母像(かりていもぞう)」には宋画の影響もみられ、装飾性をおさえて自由な線描が駆使されている。また、高野山有志八幡講十八箇院の「阿弥陀聖衆来迎図」は、装飾性と律動感にあふれる大画面の作品である。
院政期に入ると成熟した王朝文化を背景に世俗画の台頭がめざましくなった。すでに物語文学の流行は宮廷女性の好みを反映したロマン情緒豊かな「女絵」を成立させていたが、その最高の表現が12世紀前半の「源氏物語絵巻」(徳川黎明会・五島美術館)に結実している。源氏物語の各場面の絵にそれと対応する詞書(ことばがき)が挿入され、各場面は構図的に完結している。人物は特徴的な引目鉤鼻(ひきめかぎばな)という型によるが、情感と心理の綾の微妙な表現に成功している。さらに装飾的な感覚をしめすものに「寝覚物語絵巻」(大和文華館)がある。
こうした耽美的な物語絵巻に対して、絵巻の形式を生かして物語を連続してつづっていく説話絵巻にも、「伴大納言絵巻」(出光美術館)や「信貴山縁起絵巻」(朝護孫子寺)などの大作が生まれている。ともに生動感あふれる線描によって、劇的に、ときに卑俗な情景もまじえながらストーリーをまとめあげる筆力は比類がない。ほかに絵巻では高山寺の「鳥獣戯画」の動物を擬人化してユーモアをたたえた異色の表現があり、一方には浄土教の思想の中からあらわれてくる地獄草紙、餓鬼草紙のグロテスクな表現がある。それはまた末法の社会の現実と人間存在をみつめたリアリズムでもある。
| 4. | 工芸 |
平等院鳳凰堂や中尊寺金色堂内陣はさまざまな工芸技術を駆使して生まれた総合的な装飾空間である。とりわけ金色堂内陣の絢爛たる蒔絵(まきえ)、螺鈿あるいは飾り金具の豊饒さは圧巻といえる。蒔絵の「片輪車螺鈿蒔絵手箱」(東京国立博物館)は、流水に牛車の車輪がうかぶ抒情的な作品で、その優雅な形体とともに王朝の美意識の粋を感じさせる。時代末期の厳島神社の古神宝「松喰鶴小唐櫃(からびつ)」には、黒漆の地に金銀の研出(とぎだし)蒔絵がほどこされている。文様は中国の花喰鳥文が和様化したもので、平安貴族の間でこのまれたものである。金工で和様化がすすんだものが和鏡で、一群の羽黒鏡は日本的な花鳥の意匠を優雅にあらわしている。書と料紙装飾の一体となったものに西本願寺本「三十六人集」があり、技巧をつくした華麗な料紙に仮名が絶妙に調和している。平安後期には貴族が写経をきそい、多くの装飾経が生まれた。「紺紙金字一切経(中尊寺経)」、四天王寺の「扇面法華経冊子」、平氏の王朝趣味への耽溺(たんでき)をしめす厳島神社の「平家納経」などがそれである。
なお、この時代の能書家に小野道風、藤原佐理、藤原行成がおり、三蹟といわれる。
| VII. | 鎌倉時代の美術 |
この時代は1180年の頼朝挙兵のころから1333年(元弘3)に鎌倉幕府が滅亡するまでの約150年間である。中国からは宋の文化が流入して、平安期に完成した国風文化に刺激をあたえた。仏教美術は南都仏教の復興、浄土教関係の新興宗派の台頭、さらに禅宗がもたらされて活況を呈する。政治の舞台は武士の手によって鎌倉にうつされたが、美術においては京都の公家文化の影響力はいまだうしなわれてはいない。この時代、美術の新たな基調はリアリズムである。
| 1. | 建築 |
1180年、平重衡の南都焼討ちによって東大寺、興福寺の伽藍と仏像の多くが焼失したが、その復興事業が建築界に新風をもたらすこととなった。興福寺は伝統的な和様によって再建されたものの、東大寺再建の勧進職をつとめた重源は、南宋の工人陳和卿(ちんなけい)をもちいて積極的に宋朝様式をとりいれていった。新様式は大仏様あるいは天竺様と称され、東大寺南大門、浄土寺浄土堂などがのこる。しかし力強い構造をもち、豪壮な印象をあたえるこの新様式は、従来の穏やかな和様との隔たりが大きく、重源の時代以後は部分的に和様に吸収されるかたちで短命におわった。大仏様の要素をとりいれた新和様は霊山寺本堂、長弓寺本堂などに典型的にうかがえる。
また禅宗の伝来とともに、禅宗様あるいは唐様とよばれる新様式がもたらされる。北宋の様式をつたえ、細部に装飾性が豊かなこの禅宗様は、鎌倉・建長寺をはじめとして13世紀中ごろに成立したと思われるが、鎌倉時代にさかのぼる現存例は山口・功山寺仏殿などわずかである。はやくも13世紀末ごろには、和様に大仏様と新来の禅宗様の装飾的細部をとりいれた折衷様が登場する。和歌山・長保寺本堂にその例がみられる。
| 2. | 彫刻 |
彫刻においても南都復興が大きな契機となる。当時の彫刻界は京都を拠点とする円派、院派とそれに対抗する奈良仏師があり、興福寺復興の造仏は定朝の末裔であるこの三派にゆだねられた。南円堂の諸像を担当したのが奈良仏師の康慶で、そこでは天平彫刻の復古をめざしながら写実的な新様式を展開している。つづく東大寺の造仏に際しては康慶が一門をひきいてその多くを担当した。
鎌倉新様式を確立したのは康慶の息子運慶である。前代の末から活動をはじめていた運慶は、時代の初頭には静岡・願成就院の諸像などに清新な感覚の写実をしめしている。東大寺復興では1203年(建仁3)、康慶の弟子快慶とともに雄渾な南大門金剛力士像を制作。つづく興福寺北円堂の諸像、とりわけ無着・世親像がたたえる深い精神性は、運慶の晩年に達した様式の完成をうかがわせる。
運慶とともに慶派をになった快慶は、東大寺の重源に師事し浄土信仰にあつかった。安阿弥陀仏と称した彼のつくる阿弥陀立像の型は、安阿弥様(あんなみよう)として知られる。宋風をしめす醍醐寺三宝院弥勒菩薩像、浄土寺浄土堂の巨大な阿弥陀三尊像などが代表作。
運慶をついで一門を統率したのが長男湛慶である。運慶を継承する穏やかな洗練された作風で、妙法院蓮華王院本堂の諸像を手がけた。また、運慶の3男とつたえられる康弁には力感あふれる興福寺の天灯鬼・竜灯鬼像がのこる。湛慶以後はやがて運慶の様式もしだいにエネルギーをうしない、形式化にむかっていく。また、宋風の影響をうけた慶派の東国における造形に、鎌倉の大仏として知られる高徳院の銅造阿弥陀如来座像がある。
肖像彫刻では運慶の4男康勝の作に、写実に徹した六波羅蜜寺の空也上人像がある。武将の肖像としては、鎌倉・明月院の上杉重房座像の静かな老境をうつした造形が印象的である。
| 3. | 絵画 |
仏画では宋風の影響を東寺の「十二天屏風」(1191)の軽快な線描にみることができる。作者は絵仏師の宅磨勝賀。また同じころの作品に明恵上人がなき母を追慕して念持仏(ねんじぶつ)とした高山寺の「仏眼仏母像(ぶつげんぶつもぞう)」がある。細くひきしまった線描と、なによりも画面をつつむ清浄な気分が新時代の到来をつげているようである。浄土教絵画の阿弥陀来迎図も多彩な表現をみせる。厳かな法華寺の「阿弥陀三尊および童子像」は古典的な形式。来迎の一瞬をリアルにとらえた知恩院の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」は早来迎(はやらいごう)の名にふさわしく、その運動感は頂点に達している。また山々の背後から阿弥陀如来が太陽のようにのぼってくる「山越阿弥陀(やまごえあみだ)」という新しい来迎図が描かれた。
社寺の由来や霊験を描く縁起絵、開祖の伝記を描く祖師伝絵といった分野も、物語性豊かに絵巻形式で展開される。縁起絵には「北野天神縁起」(北野天満宮)と宮廷画家高階隆兼(たかしなたかかね)が描いた「春日権現験記」(宮内庁)があり、祖師伝絵の代表作としては「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」(→ 一遍上人絵伝)があげられる。そこでは静かな詩情のこめられた四季の景観の中で、時宗の開祖一遍の生涯がくりひろげられている。なお神仏習合の思想から生まれた神道の垂迹画(すいじゃくが)にも「春日曼荼羅」など聖域の景観を描くものが多く、滝そのものを神体として表現した「那智滝図」(根津美術館)は異色の存在といえる。
一方、世俗の絵画では王朝文化の名残をとどめる「紫式部日記絵巻」などとともに「平治物語絵巻」「蒙古襲来絵詞」(宮内庁)のような合戦絵のリアルな表現が注目される。
そしてこの時代の写実の精神をしめすものが、似絵とよばれる肖像画である。おもに宮廷人の相貌をうつす個性描写に特色があるが、その似絵の名手藤原隆信の筆とつたえるのが神護寺の「伝源頼朝像」「平重盛像」「藤原光能像」で、これはわが国の肖像画の最高峰に位置する重厚な表現をみせている。同じ肖像画に属し、禅僧の姿をうつす頂相も、宋画の影響のもとに禅宗の世界で大いにとうとばれた。
| 4. | 工芸 |
鎌倉時代の工芸はおおむね伝統の継承のうちに和様の完成にむかうが、時代の精神を反映して意匠の表現は写実的な傾向をおびてくる。漆工では、平安時代に優美をきわめた蒔絵に立体的な高蒔絵がもちいられるなど、複雑に写実味をましてゆく。金工では舎利信仰の高まりの中から舎利塔に優品が多く、金銅透彫舎利塔(西大寺)のように多彩な彫金の技巧の粋をつくした作例がある。また武家の時代にふさわしく刀剣が隆盛にむかい、その末期には名工・正宗が出ている。
| VIII. | 室町時代の美術 |
この時代は鎌倉幕府が滅亡した1333年から、南北朝の統一をへて1573年(天正元)の室町幕府終焉にいたる期間で、足利氏が政権を担当したおよそ2世紀半にあたる。室町時代の美術文化は、14世紀後半の3代将軍足利義満にはじまる北山文化と、15世紀後半、8代将軍義政の時代に生まれた東山文化で盛り上がりをみせる。この時代の文化は武家と公家の文化が総合されたものだが、禅宗の僧侶が新たな中国的教養の担い手となり、動乱期以後は町衆の文化も台頭した。
| 1. | 建築 |
室町幕府が鎌倉、京都の主要禅宗寺院を五山十刹(ござんじっさつ)の制度によって統制したのをはじめ、時代の前半には禅宗寺院の造営がすすみ各地にもおよんだ。初期の五山の例に東福寺三門がのこるが、これはむしろ大仏様であり、禅宗様をつたえるものには鎌倉・円覚寺舎利殿、東京の正福寺地蔵堂のほか、岐阜に永保寺観音堂、広島に不動院金堂、長野には異色の安楽寺八角三重塔などがある。また大阪の観心寺金堂は和様を主体とした折衷様の例である。
楼閣建築には、義満の北山殿の遺構として鹿苑寺金閣があり、義政の東山殿の慈照寺銀閣がのこる。金閣は三層ともことなる形式をもち、銀閣も二重の楼閣の上層が禅宗様の仏堂で、下層が和様の住宅という形式である。また慈照寺の東求堂には書院造の初期の例がみられる。
禅宗寺院では、禅宗の世界観を象徴的にあらわすものとして、庭園が重要な位置を占めている。時代の初期には夢窓疎石が作庭に新生面を開いた。もっとも洗練された庭園表現としては枯山水があり、代表的な例に大仙院書院、龍安寺方丈の石庭がある。
| 2. | 絵画 |
すでに鎌倉時代から禅宗寺院には水墨画を中心とする宋元画がもたらされていたが、これらの中国画の影響から、従来の唐絵とはことなる宋元画風の漢画の伝統が形成されていく。南北朝時代、初期の水墨画を代表する人々には、鎌倉末期に元にわたり、牧谿の再来といわれた黙庵、鉄舟、そして可翁ら一群の禅僧画家がいた。黙庵は「四睡図」(前田育徳会)などの道釈(どうしゃく)画とよばれる宗教人物画をよくし、彼らの作品の水準はすでに禅僧の余技の域をこえていた。それに対して、請来された宋元画をまなびながら、より専門化していく画僧たちがあらわれる。その中で応永年間(1394~1428)の前後に、東福寺の明兆は初期の室町水墨画を代表する巨匠として、彩色画をふくめて精力的な活動をしている。
この時代、禅僧の詩文による賛とむすびついた山水画、いわゆる応永詩画軸が五山の間で流行する。胸中の理想郷を書斎としてあらわした「柴門新月図」(藤田美術館)などはその典型的な例で、禅の公案を描いた如拙の「瓢鮎図(ひょうねんず)」(退蔵院)もこれにふくまれる。如拙は相国寺の画僧であったが、その伝統から登場したのが周文である。確実な作品はないものの、「水色巒光(らんこう)図」をはじめ水墨山水画の展開には重要な影響力をもち、その様式は長く規範とされた。
相国寺にあって周文の画系をついだ画僧雪舟は初期の画歴は不明であるが、不穏な京都をはなれて山口に大内氏の庇護をもとめたのち、応仁の乱がはじまるころ明にわたった。帰国後は「山水長巻」(毛利博物館)、実景描写的な「天橋立図」(京都国立博物館)、禅の説話を描く「慧可断臂(えかだんぴ)図」(斎年寺)など多彩な作品群を生みだしていく。そのきびしく構築された画面は室町水墨画のひとつの到達点である。
雪舟が都をはなれ地方に活動の場をもとめていたころ、京都で幕府御用絵師となったのが狩野正信、のちに漢画系の最大流派となる狩野派の祖である。禅の世界で展開されてきた水墨山水画の幽玄な気分は後退し、宗教的な感情は希薄だが、そこにはより現実的な空間があらわれている。その子元信はやまと絵の手法もとりいれ、その花鳥画の装飾性によって次の時代を予告している。室町中期から後期にかけて京都に形成された漢画の一派に阿弥派がある。これは足利将軍の側近としてつかえた同朋衆の能阿弥にはじまり、その子芸阿弥、孫の相阿弥とつづいた。彼らは画家として活躍したばかりでなく、書画の鑑定家として「君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)」をあらわして中国美術の格付けをさだめるなど、特異な存在であった。
雪舟という傑出した個性を別にすると、狩野派、阿弥派と水墨画はしだいに禅宗の理念からはなれていくが、室町末期、雪舟の水墨の系譜につらなる禅宗の画僧に、戦国時代の地方を遍歴した雪村がいる。その劇的な表現は室町水墨画中でも異色の、最後の輝きをはなっている。
一方でやまと絵の伝統は宮廷の絵所の中に生きていた。室町時代の後半、土佐光信は絵巻や肖像画、風俗画にも手をそめた宮廷第一の画家であった。
この時代のやまと絵の障屏画の画題には四季の景観をうつす「浜松図屏風」「月次(つきなみ)風俗図屏風」があり、新たな風俗画の題材として「洛中洛外図屏風」もあらわれてくる。これは次の時代、近世風俗画として花開いていく。また大坂・金剛寺の「日月山水図屏風」は密教の儀式にもちいられる山水屏風であるが、四季をおりこんだ蒔絵を思わせる濃密な装飾的空間は、紛れもなくやまと絵の伝統の中に位置している。
| 3. | 工芸 |
室町時代は水墨画において宋元画が第1位とみなされたように、工芸の分野でも宋元を中心とする唐物主義が優位を占めている。この時代に流行した茶の湯においても同様の事情で、宋の青磁や油滴天目(ゆてきてんもく)などの一級品が最上の茶器としてもてはやされていたが、村田珠光、武野紹鴎(たけのじょうおう)が出るにおよんで「わび」の理念が導入され、美意識に転換がもたらされた。備前焼や信楽(しがらき)焼など無作為の美をしめす日本製の茶器が侘茶の精神をあらわすものとされたのである。また茶の湯の流行とともに金工の分野では筑前の芦屋、佐野の天明(てんみょう)で茶の湯釜の優品が生まれている。刀剣では備前長船(おさふね)の流派が盛んで、刀装具には名門後藤家の祖である後藤祐乗が出ている。漆工で蒔絵に幸阿弥派、五十嵐派といった有力な流派が生まれたのもこの時代のことである。
| 4. | 彫刻 |
彫刻は南北朝、室町を通じて木彫が主流である。京都では前代以来の慶派が勢力をたもち、その系統は七条仏所の名でつづいていくが、院派、円派はしだいにふるわなくなっていく。奈良においては椿井(つばい)仏所など小規模の流派の消長があった。一方、東国の鎌倉では宋風の様式が展開されている。しかし造仏活動そのものはまだ盛んにおこなわれていたにもかかわらず、鎌倉時代とくらべると仏像彫刻の創造的エネルギーの衰退は明らかである。わずかに禅宗の頂相などの肖像彫刻が気をはいていたにとどまる。なおこの時代、観阿弥、世阿弥によって大成された能から、仮面彫刻としての本格的な能面が生まれている。
| IX. | 桃山時代の美術 |
桃山時代の美術は、将軍足利義昭がおわれて室町幕府がたおれる1573年から江戸時代の初頭、豊臣氏が滅亡する1615年(元和元)までをふくむ。歴史では安土桃山時代ともよばれ、戦国時代を統一した織豊、すなわち織田信長と豊臣秀吉が政権を掌握した時代である。近世へと移行するわずか半世紀にもみたない短い期間であるが、この時代の美術は戦国時代に準備されていたエネルギーがいっせいにときはなたれた美術の黄金時代であった。黄金—それは現世肯定的な桃山時代の華麗なイメージの基調をなすものである。
| 1. | 建築 |
城郭建築のめざましい隆盛は美術全体に活気をもたらす。中世までの城は山地にかまえる防御的な性格の山城であるが、この時代の城は丘陵地帯にかまえる平山城、平地にきずく平城が主流となり、居住性にもすぐれた大規模な城郭建築が生まれた。そこでは天守という城の中心をなす高楼が特徴で、信長の安土城、秀吉の大坂城が代表的な例である。慶長年間(1596~1615)の最盛期には姫路城、彦根城などが続々と造営された。また秀吉が京都にきずいた聚楽第は武将の館の性格をもつ城であった。
社寺建築も復興期をむかえる。園城寺、東寺、北野天満宮などの復興があいつぎ、醍醐寺三宝院表書院や伊達政宗の瑞巌寺本堂などで書院造の大成をみるのもこの時代である。また霊廟建築として秀吉をまつる豊国廟は一部が琵琶湖竹生島の宝厳寺、都久夫須麻(つくぶすま)神社に移築されており、その華麗な装飾性は桃山美術の気分をよくうつしている。こうした豪華な空間が展開される中で、茶の湯は千利休の出現によって侘茶の精神性を深めて草庵の茶室に結晶する。利休の茶室は妙喜庵待庵がのこるのみであるが、主客が対峙(たいじ)する2畳という極小の簡素な空間の中には数寄(すき)、つまり風流をこのむ精神が凝縮されて生きている。その姿は城郭や書院の豪華な格式とは対極をなす静謐(せいひつ)の空間である。
| 2. | 絵画 |
絵画では金碧(きんぺき)障壁画の時代が到来する。力を誇示する天下人の大規模な城郭建築はそれにふさわしい内部の装飾をもとめた。力強く、しかも統一感のある明快な表現と主題。それを実現させたのが狩野元信の孫、狩野永徳である。1566年(永禄9)、24歳の永徳は大徳寺聚光院に巨木を中心にすえた躍動的な「四季花鳥図襖」を描き、新時代の到来をつげた。信長は彼に安土城の天守御殿の障壁画をゆだね、ついで永徳一門は秀吉の大坂城、聚楽第をも担当して桃山前期の様式を決定づけた。これら信長や秀吉のための障壁画は城郭と運命をともにして今はみることができないが、「唐獅子図屏風」(宮内庁)、晩年の「檜図屏風」(東京国立博物館)に重厚なその様式の完成をみることができる。
50歳間近で急逝した永徳のあと桃山後期の狩野派の伝統をつぐのは長男光信、弟子山楽らである。光信の表現は父永徳にくらべより抒情的なもので、永徳独自の威圧感は後退している。むしろ光信の作風に通じながら永徳の豪放な気風をつぐのは山楽であり、大覚寺宸殿(しんでん)の障壁画の諸作がそれをしめす。以後狩野派は一段と装飾的な画面構成にむかっていった。
永徳の天才がリードした前期にくらべると、桃山後期の画壇は狩野派以外の画家たちも頭角をあらわして、群雄割拠の観を呈してくる。わけても長谷川等伯が息子久蔵ら一門をひきいて制作した智積院の金碧障壁画は、巨木を軸にしながらも装飾的な意匠と抒情性を融合して、日本美術を貫流する特質をあざやかにしめしている。金碧障壁画とは別に、彼には水墨の「松林図屏風」(東京国立博物館)がある。それは彼のまなんだ牧谿とも室町水墨画ともことなり、日本の自然を日本の感性で描いた、おそらくはじめての水墨画である。海北友松は武家の出身で、彼もまた宋元画にひかれた。建仁寺本坊方丈に描いた水墨障壁画「花鳥図」のはげしい気迫は、武人にふさわしい雄渾(ゆうこん)な表現である。
漢画系の活躍に対し、やまと絵の本流土佐派はふるわなかった。だが、土佐の画系とははなれたところからやまと絵が復活する。京都の上層町衆の出身の俵屋宗達は、本阿弥光悦の書との競作で、金銀泥の華麗な料紙装飾の世界に卓抜な意匠感覚をふるった。彼は江戸期に入ると古典を自在に解釈する大画面にいどんでゆく。
平和を謳歌する時代の気分を反映するかのように、風俗画が台頭してくる。それは狩野派の画家たちがこの分野に新たに筆をそめたことからはじまった。狩野秀頼作「高雄観楓(かんぷう)図屏風」(東京国立博物館)は近世初期風俗画のはやい例であり、京都の街の景観をパノラマ的に描く「洛中洛外図」は、永徳筆とみられる上杉家本や舟木家本が桃山時代の作品である。さらに狩野内膳筆「豊国祭礼図屏風」(豊国神社)、狩野長信筆「花下遊楽図屏風」(東京国立博物館)は人々のファッションの細部までクローズ・アップしてみせる。南蛮趣味は風俗画に南蛮屏風と洋風画という異色の彩りをくわえた。南蛮屏風でも狩野派の画家たちが主導的な役割をはたしているが、ポルトガル人の風俗を主題としながら空間表現は西洋風ではない。一方の洋風画はキリスト教のセミナリヨ(神学校)の聖画像にはじまるもので、「泰西王侯騎馬図屏風」(→ 神戸市立博物館)などの世俗的な作品には、きわめて空想的な異国趣味がもりこまれている。これはわが国最初の西洋絵画との出会いであったが、キリシタン禁制のために短命におわった。
| 3. | 工芸 |
工芸の分野ではまず、侘茶の流行によって茶陶に大きな展開をみせた。京都では侘茶の精神を具現するものとして、千利休の指導によって長次郎が楽焼を創始する。美濃では瀬戸黒、黄瀬戸、志野、織部がつくられる。また伝統の備前、信楽、伊賀でも茶陶の需要はまし、秀吉の文禄・慶長の役では朝鮮半島から陶工をつれてかえり、萩、唐津などの窯を開くことになった。利休好みの落ち着きのある長次郎の楽焼に対し、利休の門下で武将の古田織部(ふるたおりべ)の好みによる織部焼は「ひょうげもの」とよばれるゆがみ、ひずみの美を重視した大胆な意匠によって個性を主張している。金工でも茶の湯釜が盛んにつくられ、芦屋、天明(てんみょう)にかわって京釜が勢いをもち、利休の釜師として辻与次郎が出ている。武具では、兜(かぶと)にサザエや団扇をあしらうなど異形ともいえる奇抜な意匠がみられる。こうした造形は織部の作為のまさった表現にも通じるものがある。
桃山時代の漆工は高台寺蒔絵と南蛮漆器に代表される。前者は秀吉の夫人北政所が創建した高台寺の霊屋内陣を華麗に装飾したもので、黒漆に秋草の意匠の蒔絵は、北政所がもちいたという調度品にも同様にほどこされている。南蛮漆器は南蛮の風俗や十字架を意匠にあしらった新奇な異国趣味をしめている。染織では金銀の箔に刺繍をくわえた豪華な能衣装が制作され、辻が花染が誕生したのも前代末からこの時代の初期にかけてのことである。
| 4. | 彫刻 |
あらゆる美術分野が活況を呈する中で仏教彫刻のみは表現も硬化して、ついに低迷から脱することができなかった。わずかに遠く運慶の系譜につらなる七条仏師の康正(こうしょう)に東寺の金堂薬師如来像の制作がある。この時代には建築を装飾する彫刻にむしろ自由な表現がみられる。
| X. | 江戸時代の美術 |
ここでは江戸時代の美術を豊臣氏のほろびた1615年のころから1867年(慶応3)、最後の将軍徳川慶喜が大政奉還するまでのおよそ2世紀半とし、それを前期・中期・後期の3期にわける。前期は最初の約100年間で、この中では寛永期(1624~44)と元禄期(1688~1704)に文化的な盛り上がりがある。中期は享保期(1716~36)にはじまる約90年間、後期は文化・文政期(1804~30)をふくむ幕末までの約60年間である。江戸時代は幕藩体制が確立され、鎖国令がしかれて、かつてない長期にわたる平和がもたらされた。その中で17世紀の末からは近世の町人の文化が花開き、また江戸は上方とじゅうぶんに対抗しうる文化的な土壌をきずいていった。
| 1. | 建築 |
前期は桃山時代の遺風をついで装飾はさらに華麗さをまし、江戸時代を通じてもっとも充実した時期であった。前代に展開された書院造は、寛永期の二条城二の丸御殿や西本願寺書院において威厳と格式をそなえた完成の域に達する。霊廟建築では徳川家康をまつる日光東照宮がある。本殿・拝殿を連結した権現造(ごんげんづくり)とよばれる複合的な形態をもち、彩色、建築彫刻、飾り金具などの装飾の壮麗さは西欧のバロック様式にもなぞらえられる。寺院建築でも大規模な知恩院本堂や清水寺本堂などが造営されている。また禅宗の一派、黄檗宗(おうばくしゅう)の特異な寺院建築として長崎・崇福寺大雄宝殿、宇治・万福寺の諸堂がある。
一方では、宮廷貴族の別荘としていくつかの数寄屋風書院建築が誕生した。八条宮家の別荘、桂離宮は書院群と変化のある池庭がめぐらされ、そこに茶亭が点在する。内部の洗練された意匠、優雅な空間はしばしば東照宮の華美をきわめたスタイルと対照される。後水尾上皇の修学院離宮はさらに雄大な自然景観を生かした例である。
江戸中期以降の町人文化を代表するものに遊廓建築があり、京都島原の角屋(すみや)は内部装飾に斬新なデザイン感覚をしめしている。中期には諸藩の学校建築も盛んになってくる。はやい時期に属する岡山池田藩の閑谷黌(しずたにこう)はその代表的な例である。社寺建築も盛んな庶民信仰にこたえて大衆化する。長野の善光寺本堂は外陣を広くとり、土足のまま礼拝できる新しい形式の開放的な空間を生みだしている。
| 2. | 絵画 |
狩野派は前期の初めに永徳の孫にあたる探幽が江戸にくだり、御用絵師に任ぜられた。これが江戸狩野の始まりである。以後狩野派は、京都の山楽とその子山雪の画系である京狩野を別にすると、多くが江戸に拠点をかまえることになる。探幽は二条城、名古屋城、大徳寺の障壁画を次々とこなし、祖父永徳の豪放さとはことなる洗練された画風で狩野派の方向をさだめた。狩野派はその後巨大な個性を生むことはなかったが、奥絵師を頂点とする底辺の広い強大な組織を幕藩体制の中で確立していった。その狩野派から破門された画家に「夕顔棚納涼図」(東京国立博物館)で農村の暮らしを新鮮な感覚でうつした久隅守景がおり、同じく狩野派の枠の中では生きられなかった個性に英一蝶がいる。また前期の孤高の画人に剣豪武蔵の名で知られる宮本二天がおり、気迫の水墨画をのこしている。
すでに桃山期に活動をはじめていた宗達は「関屋澪標(せきやみおつくし)図屏風」(静嘉堂文庫)、「舞楽図」(醍醐寺)、「風神雷神図屏風」(建仁寺)などの障壁画で、やまと絵の伝統の上に豊かな装飾性と独創的な造形感覚を展開して琳派の祖となった。元禄期にはその後継者尾形光琳が登場する。京都の商家出身の彼もまた、はじめは狩野派をまなぶが、宗達の画風に接して、自然観照と装飾的意匠がきびしい様式化のうちに一つのものとなる近代的な造形空間をきずいた。代表作に「燕子花(かきつばた)図屏風」(根津美術館)と「紅白梅図屏風」(MOA美術館)がある。琳派がこうしてやまと絵に新しい息吹をおくりこむ一方、その本流である土佐派は土佐光起が京都で宮廷絵所預(あずかり)となって画系を再興、土佐派から出た住吉具慶は江戸で奥絵師となり、それぞれ画派を形成した。
風俗画は江戸時代に入ると在野の町絵師が担い手となって展開をみる。新たな主題は誕生まもない歌舞伎と遊里(ゆうり)というきわめて享楽的なものである。遊里風俗に材をとった室内遊楽図に「彦根屏風」がある。寛文期(1661~73)には遊楽図の中からぬけでるように単独の美人図があらわれ、それは肉筆浮世絵につながっていく。前期の特異な存在である岩佐又兵衛は、風俗美人図を描いて「浮世又兵衛」と称され、「山中常盤絵巻」(MOA美術館)など情念の渦まく一連の極彩色絵巻をのこした。
このころ出版が盛んになっていた江戸では、絵入りの版本の絵師であった菱川師宣が一枚刷りの木版画を手がけ、ここに浮世絵が創始される。その後は、役者絵の鳥居清信、清倍(きよます)らが墨一色から彩色へと歩みをすすめていく。
江戸中期には多彩な個性がいっせいに花開いた。浮世絵の世界では1765年(明和2)、鈴木春信が錦絵とよばれる多色摺(ずり)木版を制作する。古典に取材した彼の清楚で夢幻的な美人画は成功をおさめ、錦絵によって豊かな表現の可能性をえた浮世絵は黄金時代をむかえた。美人画では鳥居清長が3枚続きの画面に群像を配し、寛政期には喜多川歌麿が妖艶な女性美を表現した。役者絵では勝川春章が写実的な似顔絵をこころみ、東洲斎写楽は、役者の上半身をクローズ・アップした大首絵(おおくびえ)によって傑出した個性描写を展開した。
江戸中期には、幕府の儒教政策にともなって普及した中国趣味や明清画の影響のもとで、文人画(南画)が勃興(ぼっこう)する。祇園南海、柳沢淇園、彭城百川ら初期の画人の後をうけて、池大雅、与謝蕪村が文人画を確立する。大雅は京都の出身で、南海や淇園にまなんで全国を遍歴し、のびのびとした線描によってとらえた自然は、豊かな人間性をもうつしだしている。蕪村との合作に「十便十宜(じゅうべんじゅうぎ)図」(川端康成記念館)がある。蕪村は俳人としても名高く、絵は独学であるが晩年にいたっても抒情的な感性を深め、水墨画「夜色楼台図」によってその境地をしめしている。
京都では、精神性を投影する文人画に対し、円山応挙が写実を基礎に新感覚の様式を開いた。これが円山派である。最初狩野派にまなんだ応挙は明清画や西洋画の透視図法もとりいれたが、その現実的で明快な表現は町人層の感性にうったえるものがあった。蕪村に師事した松村呉春も円山派に転じ、彼の形成した四条派は近代の京都画壇の伝統にながれこんでいく。応挙のもうひとりの弟子長沢蘆雪は師風に大胆な個性をくわえて発展させたが、京都にはまた伊藤若冲と曽我蕭白という特異な個性も生まれた。若冲の「動植綵絵(さいえ)」(宮内庁)の幻想的な装飾性、蕭白の「群仙図屏風」の激越な主情的表現は、蘆雪とともに奇想派と称されるゆえんである。
また、長崎で西洋画法に接した平賀源内の影響のもとに、明清画と西洋画法とを折衷した秋田蘭画が江戸中期に誕生し、それは後期にかけて油彩をもちいて本格的な洋風画をこころみた司馬江漢につながっていく。
江戸後期は文化の爛熟の中で近代への胎動がはじまる時代である。文人画では浦上玉堂、田能村竹田、青木木米が輩出し、その表現の可能性を広げていく。玉堂の「凍雲篩雪(とううんしせつ)図」(川端康成記念館)は、自然観照に徹した山水画の孤高の到達点である。関東でも谷文晁や、その弟子で肖像画にするどい個性描写をしめした渡辺崋山らの文人画家があらわれている。また光琳没後100年に近いころに、江戸で酒井抱一は琳派を再興する。その「夏秋草図屏風」(東京国立博物館)は、日本の自然の抒情と装飾性が融合した繊細な作品である。
後期の浮世絵は2つの偉大な個性に代表される。「富嶽三十六景」などの風景版画をはじめとして旺盛な創作をくりひろげた葛飾北斎と、「東海道五十三次」で風景の抒情をうたいつづけた歌川広重である。さらに幕末期の美意識は、歌川国貞の役者絵、歌川国芳の奇想と風刺、渓斎英泉の退廃的な女性美などにうつしだされている。
| 3. | 工芸 |
1616年に朝鮮の陶工によって九州有田で最初の磁器が制作されると、有田の磁器生産は急速に増大し、積み出し港の名に由来する伊万里や、色絵磁器の柿右衛門、有田を領する鍋島藩の色鍋島など、有田の磁器は隆盛をほこっていく。加賀では九谷が斬新な意匠を展開。京都では野々村仁清が優雅な色絵陶器をつくり、尾形光琳の弟乾山がその京焼に新たな個性をくわえた。京焼ではその後奥田穎川(えいせん)が磁器に手をそめ、その弟子で文人画家でもある青木木米が煎茶道具などに新鮮な感覚をみせた。
光琳は乾山の陶器に絵付けする合作ものこしているが、「八橋蒔絵硯箱」(東京国立博物館)などいわゆる光琳蒔絵にすぐれた意匠感覚をしめしている。また伝統の幸阿弥派、五十嵐派は将軍家につかえ、豪華な婚礼調度などを制作している。中期の江戸では小川破笠が出て、新奇な素材をもちいた蒔絵に細緻をきわめた技巧を駆使した。こうした技巧に対する偏愛は江戸の工芸の特質でもあり、それは庶民の生活にもおよんで、根付、印籠などの装身具や簪、笄(こうがい)などの髪飾りの流行を生みだしている。
染織では、前期に細かい絵模様を配した慶長小袖と、大きな模様の寛文小袖が流行する(→ 小袖)。元禄期の京都では宮崎友禅(→ 友禅)が創始した華麗な絵模様染の友禅染がもてはやされた。
ガラス工芸は長崎ではやくから中国や西洋の技法を吸収して生産をはじめていたが、後期に江戸切子、薩摩切子があいついで開発された。
| 4. | 彫刻 |
近世になっても仏師系の伝統はつづいていたが、創造力の沈滞から脱することはできなかった。その中で、前期に円空、後期に木喰という遊行僧は諸国をめぐりながらおびただしい数の仏をきざみ、専門の仏師たちのうしなった強烈な個性を発揮した。
| XI. | 近現代の美術 |
ここでは1868年(明治元)から明治、大正、昭和前期、第2次世界大戦をはさんで戦後の現代にいたる1世紀余りの美術の動向をあつかうが、戦後については最後に現代美術として概観する。
明治維新という大変革は美術の世界にも西欧文明の摂取、近代化という道をあゆませる。変革は決定的なものであったが、しかしそれは明治維新によって旧来の伝統が終焉し、そこから近代が開始したということにはならない。すでに江戸後期から近代への胎動ははじまっており、みえないレールがしかれていた。
| 1. | 建築 |
幕末には幕府や先進的な藩は西欧の建築技術に関心をしめし、一部では折衷的な洋風建築が手がけられはじめていた。新政府は新時代にふさわしい本格的な西洋建築を導入し、建築家を育成するために、工部大学校に英国人コンドルを招聘(しょうへい)する。これがいわゆるお雇い外国人である。彼は鹿鳴館、ニコライ堂などを設計し、その門下には辰野金吾、片山東熊らがそだった。彼らと後続の世代は西洋の歴史的様式を吸収し、明治中・後期に辰野は日本銀行本店を、片山は赤坂離宮をつくるなどして活躍した。→ 洋風建築
その後、歴史的様式にかわってアール・ヌーボー、ゼツェッシオン、ドイツ表現主義などの19世紀末から20世紀初頭の新様式も紹介され、大正期には堀口捨己らを中心に分離派建築会も設立される。この時期の作品に石本喜久治による旧朝日新聞社がある。大正期にはライトによって帝国ホテル(一部が明治村に保存)がつくられ、建築界に刺激をあたえた。さらにドイツのバウハウスにはじまる機能主義の影響がおよび、昭和初期には日本でもモダニズム建築の土壌ができあがっていく。だが、戦争の足音がせまる昭和10年代にはモダニズムも一時沈滞し、その本格的な開花は戦後をまたねばならなかった。
| 2. | 日本画 |
明治以後の近代絵画では、近世以前の絵画の伝統を継承するすべての様式を総称して日本画という。文化・芸術の欧化政策がすすむ中で、明治10年代に御雇外国人のひとりフェノロサは日本の伝統絵画の優秀性を説き、江戸狩野派をつぐ狩野芳崖や橋本雅邦をみいだすなど、伝統の復興をめざした。フェノロサの理念をうけつぐ岡倉天心は1889年に東京美術学校を創設、横山大観、菱田春草、下村観山などを育成した。彼らは天心の日本美術院設立に参加し、主題のロマン主義的な内容とともに、洋画の表現をとりいれた「朦朧体(もうろうたい)」によって伝統の世界を革新していった。春草の「黒き猫」はその代表的な表現である。京都では江戸後期以来の円山四条派で幸野楳嶺(ばいれい)が新世代の育成につとめ、門下の竹内栖鳳が西洋画も摂取して、彼を中心に近代の京都画壇が形成されていった。
1907年、初の官展として文部省美術展覧会(文展)が設立されるが、抗争の中で日本美術院系は離脱、大正期の日本画壇は文展(のち帝展、新文展に改組)と再興日本美術院(院展)を軸に展開していく。院展では今村紫紅、安田靫彦、小林古径、前田青邨、速水御舟らが、歴史的・物語的主題をロマン主義的に表現する美術院の伝統を継承しながら、個性的な画風を成熟させていった。紫紅は鮮烈な色彩で日本画の表現の可能性を広げ、御舟は対象を細緻にみつめる写実と装飾性を融合させている。官展系では浮世絵の流れをくむ鏑木清方が「築地明石町」などの美人画と風俗画に江戸情緒を新感覚でうつし、松岡映丘はやまと絵の伝統を新生させた。また、京都では栖鳳の門下から女流の上村松園が出ている。
大正期の京都における最大の動向は国画創作協会の結成である。この協会では官展に反旗をひるがえした青年画家、小野竹喬、土田麦僊、村上華岳らが中心となり、洋画をも積極的にとりいれながら、従来の日本画とは異質の個性的で濃厚な情念を表現した。運動は短命だったが彼らは昭和期にそれぞれの画風を大成させていく。またそうした画壇の趨勢をよそに、文人画の道を長い生涯にわたってあゆんだ孤高の画人富岡鉄斎がいた。
大正期に開花した個性は昭和に入って成熟をみせ、院展の靫彦、古径、青邨らは新古典主義的なきびしい線描の様式を確立する。川合玉堂は風景を四季の抒情でいろどり、京都の福田平八郎はなにげない自然の一画を近代的な装飾感覚で構成した。新世代には徳岡神泉、吉岡堅二がおり、青竜社をおこした川端龍子がいる。
| 3. | 洋画 |
明治の初期、高橋由一は迫真の写実を基礎に「鮭」「花魁(おいらん)図」(ともに東京芸術大学)などを描いて本格的な洋画の第一歩をしるした。明治初期には川上冬崖(とうがい)の聴香読画館(ちょうこうどくがかん)、由一の天絵楼(てんかいろう)など私的な画塾による絵画教育もはじまっている。新設の工部美術学校はイタリア人画家フォンタネージを招聘、その門下からは浅井忠、小山正太郎らがそだった。また直接西欧で油彩画をまなび、その技法をもたらした初期の画家には、国沢新九郎や川村清雄、山本芳翠らがいる。
その後、急激な欧化に対する反動から洋画は一時停滞するが、工部美術学校出身者による明治美術会の結成後、まもなく帰朝した黒田清輝がフランス印象派(→ 印象主義)を紹介してふたたび活気をとりもどした。彼の「湖畔」(東京文化財研究所)は印象派風の表現と日本的情感が融合した作品である。外光派と称された黒田らは新たに白馬会を結成し、明治美術会をあらためた太平洋画会と拮抗する時代に入る。次の世代の藤島武二、青木繁らは世紀末美術の影響もうけ、明治末期のロマン主義的文学性を代表していく。
大正期の初頭には岸田劉生らがフュウザン会を結成する。雑誌「白樺」で後期印象派に接した劉生は、さらに西洋の古典をとおして写実を深め、のちに東洋的精神に回帰していく。劉生には一連の個性的な「麗子像」がある。大正初期には文展に対抗して二科会が創設され、新帰朝の梅原龍三郎、安井曽太郎もくわわった。キュビスム、フォービスムなど西欧の新傾向が続々と紹介された大正期には、ほかに万鉄五郎、中村彝、関根正二、村山槐多など多彩な個性が表現をきそいあった。さらに雑誌「月映(つくはえ)」で創作版画を展開した恩地孝四郎や、多彩な竹久夢二の活動もあるが、そうした時代の背景にあった大正デモクラシーの気風は、やがて関東大震災を境に変貌していく。
大正末年に結成された1930年協会では、前田寛治、佐伯祐三らが昭和になってフォービスムを展開させた。パリの憂愁を描く佐伯は、ついに日本の風土になじむことのなかった画家であるが、梅原、安井らは日本の風土との対決にくるしみながらも油彩画の表現を追求し、昭和期になって自己の様式をきずいていった。また、日本的な風土に立脚して洋画を確立した画家に、坂本繁二郎、小出楢重、晩年の藤島武二がいる。
一方、大正期にはじまった西欧の前衛運動(アバンギャルド)の移入は、洋画界にいっそうの拍車をかけた。村山知義はMAVOを結成して構成主義を移植し、シュルレアリスムは福沢一郎、古賀春江、三岸好太郎らによって前衛の中でも実りあるものとなった。二科会の内部からは斎藤義重、吉原治良(じろう)らの九室会が誕生。また政治的な前衛はプロレタリア美術へとむかった。1935年(昭和10)の松田文相による帝展改組は混乱のうちに新文展に改組され、紀元二千五百年記念奉祝展以後、ファシズムの影が画壇をおおっていく。
| 4. | 彫刻 |
長く不振をつづけていた彫刻は、イタリア人ラグーザが工部美術学校に招聘され、洋風彫刻が移入されるにおよんで、宗教的主題からときはなたれた。ラグーザ門下によって初期の銅像がこころみられ、明治中期には西欧で彫刻をまなんだ長沼守敬(もりよし)、新海竹太郎らが指導的役割をはたしている。明治末期、ロダンの影響をうけた荻原守衛と詩人でもある高村光太郎によって真に造形的な近代彫刻が誕生した。荻原の「女」は日本近代彫刻の記念碑的作品である。大正期には文展で写実の伝統をきずいた朝倉文夫がおり、一方木彫には再興院展の平櫛田中(ひらくしでんちゅう)や近代的な個性をしめした橋本平八がいる。荻原を通じてロダン的な作風をついだ大正期の世代には強靱な作風の中原悌二郎や藤川勇造がおり、またブールデルの系譜には木内克(きのうちよし)、清水多嘉示らがいる。
| 5. | 工芸 |
明治維新によって経済的基盤に打撃をうけた工芸界は、新政府による殖産振興の施策と、万国博覧会への参加、起立工商会社による伝統工芸の輸出などによって復活した。明治中期、東京美術学校には設立当初から工芸科が設置されたが、帝国技芸員制度がもうけられたことも工芸の向上に資するところが大きかった。明治後期にはアール・ヌーボーや分離派(ゼツェッシオン)など西欧のデザイン運動も紹介された。
大正末期、柳宗悦らによる民芸運動(→ 民芸)は民衆的工芸の美をとなえ、この運動からは陶芸の浜田庄司、河井寛次郎、染織の芹沢銈介らが出て。昭和に入ると、バウハウスのインダストリアル・デザインの理念がもたらされる。そのほか昭和戦前期から活動をはじめていた工芸家には、陶芸の板谷波山、富本憲吉、ガラスの岩田藤七、各務鉱三(かがみこうぞう)らがおり、彼らは戦後にもひきつづき活躍していく。
| 6. | 現代美術(戦後の美術) |
戦時下では美術団体は活動を休止せざるをえなかった。多くの画家たちが、戦争画というかたちで体制への協力を強いられるか、沈黙を余儀なくされた。戦争という特殊な政治的状況に美術界そのものは無力に近く、一部の画家たちが個人的に抵抗したにすぎなかった。戦争の傷痕は、暗い時代の不安感を内的に反映させた靉光や、戦後、戦争協力の責任を一身にせおわされてフランスにもどった藤田嗣治、のちにシベリア抑留体験を画面にかたった香月泰男(かづきやすお)の連作などに象徴的にみることができる。
戦後の画壇は二科会の復活からはじまり、官展は日展として再出発して、のち財団の運営に託される。東京ビエンナーレ(日本国際美術展)と2つの日本アンデパンダン展は、国際的な前衛美術の活動に道を開いた。かつて二科会の九室会メンバーであった吉原治良を中心に大阪で生まれた具体美術協会は、海外でも注目されたはじめての前衛運動であった。そのほか戦前からの活動を発展させた画家に海老原喜之助、鳥海青児、山口薫、抽象絵画の岡本太郎、斎藤義重、山口長男らがおり、戦後渡仏した菅井汲や、新たに登場する世代には高松次郎、荒川修作らがあげられる。版画では棟方志功、浜口陽三らが海外でも評価を確立した。
日本画は日展では小野竹喬、徳岡神泉をはじめ東山魁夷、杉山寧、高山辰雄らの次世代が台頭してくる。院展の伝統をつぐ画家には奥村土牛、小倉遊亀、新世代の平山郁夫などがおり、さらに戦後発足した創造美術協会(のち創画会)が山本丘人、上村松篁(しょうこう)、新世代の加山又造、石本正(しょう)らを擁して日展、院展とならぶ勢力に成長してきた。彼らの多くは日本画の伝統からそれぞれ個性的な創造の道へとすすんでいるが、一方で現代の日本画と洋画は表現上の明確な区分をうしないつつあり、現代絵画では従来の絵画の枠をのりこえる試みもなされてきている。
彫刻では具象彫刻の舟越保武、佐藤忠良、抽象彫刻の堀内正和らが戦前からの活動を展開し、海外で幅広い活動をするイサム・ノグチのほか、後続世代に新たな空間を開拓する流政之、飯田善国、若林奮らがいる。彫刻は現代技術の生みだす新しい素材をもちいながら、さらに光を駆使する立体造形へと展開をはかり、環境にはたらきかけてますます多様化している。
工芸は、戦後重要無形文化財(人間国宝)の対象となり、1954年からは伝統工芸技術の保護育成のために、日本伝統工芸展が開催されている。戦後も活躍する作家には、陶芸の荒川豊蔵、楠部弥弌、金工の帖佐美行(ちょうさよしゆき)、漆工の松田権六らがいる。また、京都で八木一夫らが結成した前衛陶芸の走泥(そうでい)社が従来の機能性よりも造形性をめざしたように、ジャンルをこえて新しい創造を模索する傾向もみられる。
建築では戦前にめばえたモダニズムが主流を占めるようになる。1960年代からは高度成長期がはじまり、東京オリンピック、大阪万博の開催も刺激となって、公共の文化的施設を中心に建築は活況を呈する。主要な建築家にル・コルビュジエの影響をうけた前川国男、丹下健三らがいるほか、モダニズムと距離をおく作家村野藤吾、思索的な個性をしめす白井晟一の名も逸しがたい。モダニズムをのりこえようとする試みとしてはポスト・モダンの台頭があり、磯崎新、毛綱毅曠(もづなきこう)らの登場につづいて、新世代の旗手として安藤忠雄が活躍している。
戦後の美術ではそれぞれの領域が越境しあい、デザイン、写真、映像などの刺激によって表現はますます拡大している。同時に、時代と社会との関わりに強い問題意識をもつ作家たちと、現代の中で伝統を再生しようとする作家たちとの距離はますます増大しつつある。多様化があり、それぞれの成果が生まれている。しかし中心はまだみいだされていない。