日本美術
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日本美術
IV. 天平時代の美術

平城京へ遷都した710年から、784年(延暦3)の長岡京遷都をへて794年に都が平安京にうつされるころまでを、中心となった天平年間(729~49)の名をとって天平時代とよぶ。歴史区分の奈良時代にほぼ相当する。律令制の中央集権化は巨大な富を新都に集中させ、そこに貴族的な文化が花開く。前代からはじまっていた遣唐使のたび重なる派遣によって日本は国際的な唐の文化に直接ふれることになった。そうした美術文化を主導したのが国家が組織する官営工房である。

1. 建築

平城京には薬師寺、大安寺(大官大寺)、元興寺(飛鳥寺)などの官寺や、藤原氏の氏寺である興福寺など多くの寺院がうつされてきた。わずかに現存する薬師寺東塔は各層に裳階(もこし)をつけた優雅な三重塔で白鳳時代の様式を踏襲しているが、移転に際して大安寺などほかの寺院の多くは旧地の伽藍配置を変更し、唐の新たな建築様式を採用している。

741年(天平13)、聖武天皇は国ごとに国分寺・国分尼寺造営の詔(みことのり)を発し、ついで造東大寺司をおいて平城京の東に東大寺の巨大伽藍造営が開始される。伽藍の中心である大仏殿(金堂)は752年(天平勝宝4)の大仏開眼供養にはすでに完成しており、創建時の規模は正面88m、高さは50mに近い壮大なものであった。法華堂、転害門、正倉院正倉は8世紀中ごろの建立である。

斑鳩(いかるが)では再建法隆寺の東院夢殿などが同じ時期のものである。758年(天平宝字2)には、唐僧鑑真が唐招提寺を創立。天平後期に建立された金堂は、天平時代の伽藍の金堂としては現存する唯一のもので、正面の柱間を吹放しとする開放的な構造をもち、荘重な天平建築の完成された姿をしめしている。そのほか天平後期の建築には唐招提寺講堂、新薬師寺本堂、当麻寺東塔などがある。

2. 彫刻

平城京遷都にともなう諸寺院の移転造営と東大寺の伽藍造営により、造仏界は活況を呈し、天平彫刻は盛唐様式の直接的な影響のもとに展開していく。この時代にはとりわけ塑像と乾漆像が盛んであった。塑像の初期の例に、遷都翌年に完成した法隆寺五重塔塔本塑像がある。岩窟に配された群像によって仏典の諸場面が展開され、身振り、感情表現も豊かで前代よりもすすんだ写実がみとめられる。一方、金銅の薬師寺金堂薬師三尊像には藤原京からうつされたとする説もあるが、のびやかな人体表現や相貌には一種の理想化がくわえられており、白鳳期とは一線を画する完成度を感じさせる。その傾向は同寺の東院堂聖観音立像にもみられる。天平年間に入って興福寺の乾漆十大弟子・八部衆像がある。とりわけ八部衆像の少年のような表情はニュアンスにとむ人間的な感情が印象的である。

東大寺法華堂は天平彫刻の宝庫である。8世紀中ごろに属する乾漆・塑像群のうち本尊不空羂索(ふくうけんじゃく)観音像は三目八臂、その超越的な姿はこの時期にはじまる雑部密教系の変化観音である。ほかに梵天(ぼんてん)・帝釈天像、四天王像、憤怒(ふんぬ)あらわな執金剛神像、日光・月光菩薩立像がならび、この深い静けさの中に天平彫刻の古典主義の成果がみられる。同寺戒壇院にはもうひとつの四天王像がある。また天平年間造像の新薬師寺十二神将立像は、古典的調和をたもちながら東大寺諸像とはことなり、豊かな動勢には洗練された軽やかさが感じられる。

鑑真の来朝は、新たな中国の様式をつたえて後期の天平彫刻に転回をもたらした。唐招提寺金堂盧舎那仏(るしゃなぶつ)座像は、切れ長の大きな目でみすえるするどい相貌と波うつ衣文の質感が特徴的で、次の時代を予告するものがある。同寺の鑑真和上座像は8世紀半ばの作、和上が没する直前の姿をうつしたものとされ、人間性にまで肉薄することのできた最初の肖像彫刻である。唐招提寺にはまた一群の木彫像がある。木彫は天平前期には影をひそめていたが、ここにあらわれた充実したボリューム感あふれる体躯の諸像は、天平の古典様式とはやや異質のものである。木彫の復活には、鑑真とともにもたらされた檀像(だんぞう)彫刻の技術が背景にある。檀像は本来白檀などの香木をもちいるが、日本ではヒノキなどを代用して檀像様を形成してゆく。この時代の後半にはじまる木心乾漆の代表作は聖林寺十一面観音像で、ヒノキの一木式、ひきしまった胴ともりあがる胸は緊張感にみちて、天平後期の水準をしめしている。

天平彫刻は唐の様式の推移を敏感に反映しながら前代からの写実をいっそうすすめ、一方で理想化がこれとせめぎあうようにして古典主義の頂点に達した。

3. 絵画・工芸

遷都後、各寺院の堂内の荘厳(しょうごん)などのために絵画の需要は増大した。それらの仏教絵画の制作を担当したのは官営の専門の組織に属する画家たちであり、また造東大寺司に属する画家であった。彼らの制作もまた唐の様式や技術の強い影響下にあった。

大寺院の堂内の壁面をかざったのが大画面の繍仏(しゅうぶつ)である。これは画家が描いた原画をもとにつくられた刺繍である。「刺繍釈迦如来説法図」は釈迦如来を中央に多くの諸菩薩、飛天を配した複雑な構成である。当麻寺につたわる綴織(つづれおり)の「当麻曼荼羅(まんだら)」も壮大な阿弥陀浄土図を構成している。純粋な絵画資料としては「釈迦霊鷲山説法図」がある。東大寺法華堂根本曼荼羅としてつたわったもので、釈迦が深山幽谷(しんざんゆうこく)を背景に法華経を説く場面を描く。

一方では「絵因果経」という経巻が盛んにつくられた。これは釈迦の伝記を説いた「過去現在因果経」の経文を下段に、絵を上段に対応させたもので、その伝統は中世までながれこんでゆく。薬師寺「吉祥天像」は仏画ではあるが正装した唐風の美人を描いて風俗的な興味をさそう。繊細な線描と濃厚な色彩は天平絵画の円熟をしめしている。

仏画ばかりではなく宮廷のための絵画も制作された。正倉院の「鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)」は豊満な樹下美人を描く風俗画で、当初は部分に鳥の羽毛が貼付されていたために、この名がある。

天平時代の工芸を代表するのが正倉院宝物である。これは756年に聖武天皇の遺愛の品を光明皇太后が東大寺大仏に奉献したことにはじまり、そのコレクションは金工、木工、漆工、陶磁器、染織、ガラスなどあらゆる工芸のジャンルにおよぶ。唐の請来品、日本製ともにその技術は最高水準にあり、多彩な意匠はシルクロードがつなぐ唐とペルシャとの深い文化交流をしめしている。

正倉院につたわる書に光明皇后が写した「楽毅論(がくきろん)」がある。当時唐で流行した東晋の名筆王羲之の筆にまなんだもので、その王羲之風は日本でもっともとうとばれることになった。この時代は経典の書写も盛んにおこなわれ、聖武天皇の宸翰(しんかん)とつたえられる大聖武(おおじょうむ)などがある。