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| V. | 平安前期の美術 |
794年の平安京遷都のころから源頼朝が伊豆に挙兵する1180年(治承4)ころまでの約400年が平安時代である。このうち遣唐使が廃止される9世紀末を境に前半を弘仁・貞観時代、以後を藤原時代とする区分もあるが、ここでは藤原氏が摂関政治を完全に掌握するきっかけとなる安和の変(969:安和2)のころを区切りとして、それまでを前期、以後を後期とする。
前期は前代につづいて唐風の文化の受容がすすみ、空海が真言宗、最澄が天台宗を開くなど、入唐僧(にっとうそう)がもたらした密教が仏教文化に新風をふきこんだ。一方で遣唐使の廃止は中国との公式ルートを閉ざすこととなり、美術文化にも国風化の兆しがあらわれるようになる。
| 1. | 建築 |
平安京遷都では寺院の移転はおこなわれず、遷都後まもなく東寺、西寺の2寺が建立されたのみであった。この時代に特徴的な密教寺院は、修行を重視しておもに山中に伽藍がつくられた。最澄の比叡山延暦寺、空海の高野山金剛峰寺、それに神護寺、室生寺などである。堂塔では天台宗の法華堂、常行堂、真言宗の灌頂(かんじょう)堂、五大堂、両宗派に共通する多宝塔などの新しい建築の形式が生まれている。山中の密教建築の例が室生寺五重塔と金堂である。五重塔は古代・中世の五重塔としてはもっとも小さく、屋根を檜皮(ひわだ)でふいて、初重内部に床板をはる。中国式では屋根は瓦葺(かわらぶ)き、床は石敷などであるからこれは日本的な要素といえる。金堂も内部は床板をはり、正面に庇をつけて礼堂をもうける。
9世紀後半からは天皇の御願によって大覚寺、仁和寺、醍醐寺などの規模の大きな寺院が造営される。醍醐寺では山上伽藍につづき10世紀前半に山下伽藍が造営された。五重塔は平安前期に創建されたもので、初重の心柱(しんばしら)の囲い板や板壁などには両界曼荼羅や真言八祖像などの仏画が描かれ、華麗な装飾文様とともに塔内を荘厳(しょうごん)している。
| 2. | 彫刻 |
まず前代後半に復活した木彫が彫刻の主流となる。新薬師寺薬師如来座像と神護寺薬師如来立像はともに8世紀末の一木造。ともに深い衣文の彫りと重量感、威圧的な相貌をもち、その翻波式(ほんぱしき)衣文の律動的な表現は平安前期を特徴づけるものである。興福寺北円堂の四天王立像も8世紀末の作。伝統的な木心乾漆であるが、表情、ポーズにみられる独特のユーモアと誇張は、すでに天平の古典の気分ではない。
9世紀の前半、真言密教の彫像群があらわれる。平安京の東寺は空海に下賜(かし)され、名を教王護国寺とあらためられた。その講堂の21尊は多くは乾漆を併用した木彫像。空海の指導のもとに仁王経曼荼羅を彫刻によって構成するもので、没後まもない839年(承和6)に完成している。とくに五大明王像の憤怒の造形や梵天像の官能性ただよう異国的な表現は、講堂の密教的空間の中でも際だっている。これにつづく大阪・観心寺の如意輪観音像の官能性はあやしいまでに高まっている。神護寺五大虚空蔵菩薩像も同じころのものである。真言密教系以外では法華寺十一面観音立像が檀像の系統に属する一木造で、インド僧が光明皇后の姿をうつしたという伝説にふさわしい異国的な雰囲気と豊饒(ほうじょう)な肉付けは、真言密教像にも通じるものがある。天台密教系には滋賀・向源寺の十一面観音菩薩立像があり、完成度の高い造形をしめしている。
9世紀末ころの仁和寺阿弥陀三尊像、清凉寺阿弥陀三尊像、さらに10世紀に入って醍醐寺薬師三尊像には、威圧感が後退して穏やかな雰囲気が生まれはじめる。それは室生寺金堂伝釈迦如来像の装飾性に接近してゆく傾向とともに、平安時代後期の和様を予感させる。
そして神仏習合の中から、この時代に神像彫刻が誕生した。薬師寺休丘八幡宮(やすみがおかはちまんぐう)の僧形八幡・神功皇后・仲津姫三神像がその代表的な例である。
| 3. | 絵画 |
密教彫刻と呼応して時代をあざやかにいろどるのは密教絵画である。曼荼羅は密教の根本思想を総合的にイメージとして表現するもので、密教の修法の本尊である。空海が唐から請来した両界曼荼羅は胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅をあわせたもので、原本はのこらないがそれを手本とした最古の遺品が9世紀前半の神護寺「両界曼荼羅」である。通称高雄曼荼羅、紫の綾に金銀泥(きんぎんでい)の線描のみで図像が描かれている。彩色本では東寺の「両界曼荼羅(伝真言曼荼羅)」が9世紀後半の作とされ、表情も豊かな諸尊を描きだす強烈な彩色は、異国的で濃厚な密教的宇宙を現出させている。十二天像は方位を守護する密教の護法神で、おおらかな表現の西大寺(さいだいじ)「十二天」は初期の例である。密教特有の憤怒尊には、不動明王のはやい例として園城寺の秘仏「不動明王像」があり、黄不動と通称される。肖像画では空海が請来した真言五祖像に新たに2像をくわえた「真言七祖像」が東寺にのこる。室生寺金堂の壁画「伝帝釈天曼荼羅」は、純粋密教画ではない雑部密教系の作例。同じく板絵に醍醐寺「五重塔初重壁画」があり、図様、彩色ともに穏やかな印象は平安後期につながる。
一方世俗的な絵画では、宮廷を中心にして唐風の題材を描いた山水画などが流行し、それらの唐絵(からえ)に対して日本的な風景や風俗を描くやまと絵が平安前期に誕生したことが文献の上では知られている。季節の風俗を屏風などに描いた月次絵(つきなみえ)のことは和歌にもよまれ、新しい様式の出現が推測されているが、作品は現存しない。
| 4. | 工芸 |
工芸では空海が請来した金銅密教法具が金工に新たな分野を開くが、それが和様を展開するのは次の時代をまたなければならない。その空海請来の経典、三十帖冊子をおさめるためにつくられた仁和寺の宝相華迦陵頻伽蒔絵冊子箱(ほうそうげかりょうびんがまきえさっしばこ)は919年(延喜19)の作で、年代の確実な最古の蒔絵である。素地を乾漆でつくり、金銀の研出(とぎだし)蒔絵で律動感豊かに文様を描きだしている。
書では前代につづいて唐風の書風がこのまれ、能書家として空海、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)が三筆として知られる。空海には、最澄にあてた「風信帖(ふうしんじょう)」などがある。