日本美術
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日本美術
VI. 平安後期の美術

平安後期の美術文化の傾向を支配するのが和様である。遣唐使の廃止と唐の滅亡によって文物流入の巨大な波はいったんせきとめられ、蓄積されたエネルギーは国風化の方向で熟成を深めていった。律令制度は衰退し、かわって藤原氏の摂関政治、上皇による院政がおこなわれ、そこに華麗な王朝文化の花が開いて和様が展開する背景となった。11世紀になると末法思想が広まり、それは極楽浄土への憧憬を高めて浄土教美術がおこる。時代の末期、政権を掌握するのは新たに台頭した武士集団平氏で、彼らが王朝文化の最後の継承者であった。2世紀にわたって展開、完成された王朝文化こそ、以後の日本の美術文化が目標とし、あるいは挑戦した新たなる「古典」であった。

1. 建築

藤原氏は平安後期の初めの1世紀余りの政治を支配したが、なかでも道長、頼通2代の時代にその権勢は頂点に達した。道長が京都に建立した阿弥陀堂(1020)、金堂(1022)、薬師堂などの諸堂がたちならぶ法成寺のさまは、あたかも極楽浄土が現出したかのような壮観を呈していたとつたえられる。1053年(天喜元)、道長の宇治の別荘の地にその子頼通が建立したのが平等院であり、池の中島にたつ阿弥陀堂は鳳凰堂とよばれる。軒を大きくはりだした優美な姿は完成された和様をしめし、阿弥陀如来座像を中心に堂内を荘厳する洗練された装飾的空間とともに、日本的な美意識の典型にかぞえられる。

この時代、浄土信仰の高まりによって普及した阿弥陀堂には、ほかに浄瑠璃寺本堂がある。これは現存する唯一の九体阿弥陀堂で、本堂の前の園池は浄土庭園の一例である。阿弥陀堂の形式は地方にも広がり、福島県の願成寺阿弥陀堂や平泉の中尊寺金色堂がある。奥州の藤原3代は数々の仏堂を造営し、なかでも秀衡の建立した無量光院はほぼ平等院鳳凰堂を模したものであったといわれるが、中尊寺金色堂のみが現存する。

なお、平安時代には貴族の住宅として寝殿造の存在が知られているが、その遺例はない。

2. 彫刻

仏教彫刻においても和様は静かに熟成していった。木彫は従来の一木造にかわって本格的な寄木造が成立する。寄木造は大型の造仏を容易にし、分業によって大量の注文にもこたえられる、経済的にも効率の高い大きな技術的革新であった。

道長の法成寺造営のおり、九体阿弥陀像を制作した仏師が康尚(こうじょう)である。彼は和様化の展開に大きな役割をはたした仏師とされるが、康尚作と推定できるものは同聚院不動明王像のみである。平安前期の密教の憤怒相の激しさはやわらげられ、穏和な作風は和様の進行をしめすものである。この康尚の子で、法成寺の造仏にも参加したのが和様彫刻の大成者、定朝である。平等院鳳凰堂阿弥陀如来座像は定朝晩年の1053年の作で、完成された寄木造によって生みだされている。中国の直接的な影響はここにはなく、その穏和な相貌、優美な衣文、誇張のない自然な姿は完璧な調和のうちにある。堂内長押(なげし)の壁面をかざる一群の雲中供養菩薩像も、定朝とその工房の制作である。

定朝のきずいた様式は後継者をえて広がり、定朝様として規範化されていった。そこからは院派と円派、奈良仏師の系統が生まれ、3者とも定朝様をつたえていく。定朝様に属する作品には、浄瑠璃寺本堂の九体阿弥陀像、11世紀末の法界寺阿弥陀如来像、12世紀の法金剛院阿弥陀如来像などがある。いずれも貴族的な趣味にこたえる繊細な作風であるが、以後は次第に形式化にかたむいていった。その中で長岳寺阿弥陀三尊像はボリューム感にとみ、表情も個性的で類型化をまぬがれている。作者は奈良仏師の系統とされており、その清新な表現は奈良仏師の系譜がやがて鎌倉彫刻の新様式をきりひらいたことを考えるとき象徴的である。また平安時代の最末期に属する作品に円成寺大日如来座像があるが、作者は若き日の運慶である。

3. 絵画

平安後期は仏画の最盛期であった。11世紀の作例に平等院鳳凰堂の扉絵や青蓮院「不動明王二童子像(青不動)」、金剛峰寺の「仏涅槃(ねはん)図」などがある。このうちはじめて本格的な来迎図を主題とした鳳凰堂扉絵は仏画ではあるが、四季の風物が抒情的に描きこまれており、初期のやまと絵のようすを想像することができる。その意味では広がりのある風景を表現した東寺伝来の唐絵「山水(せんずい)屏風」の存在も貴重である。12世紀前半の仏画には装飾性豊かな「十二天像」(京都国立博物館)、明王としてはむしろ優美な東寺の「五大尊像」があり、「普賢菩薩像」(東京国立博物館)の工芸的な精緻をきわめた表現は耽美的とさえいえる。12世紀の後半の醍醐寺の「訶梨帝母像(かりていもぞう)」には宋画の影響もみられ、装飾性をおさえて自由な線描が駆使されている。また、高野山有志八幡講十八箇院の「阿弥陀聖衆来迎図」は、装飾性と律動感にあふれる大画面の作品である。

院政期に入ると成熟した王朝文化を背景に世俗画の台頭がめざましくなった。すでに物語文学の流行は宮廷女性の好みを反映したロマン情緒豊かな「女絵」を成立させていたが、その最高の表現が12世紀前半の「源氏物語絵巻」(徳川黎明会・五島美術館)に結実している。源氏物語の各場面の絵にそれと対応する詞書(ことばがき)が挿入され、各場面は構図的に完結している。人物は特徴的な引目鉤鼻(ひきめかぎばな)という型によるが、情感と心理の綾の微妙な表現に成功している。さらに装飾的な感覚をしめすものに「寝覚物語絵巻」(大和文華館)がある。

こうした耽美的な物語絵巻に対して、絵巻の形式を生かして物語を連続してつづっていく説話絵巻にも、「伴大納言絵巻」(出光美術館)や「信貴山縁起絵巻」(朝護孫子寺)などの大作が生まれている。ともに生動感あふれる線描によって、劇的に、ときに卑俗な情景もまじえながらストーリーをまとめあげる筆力は比類がない。ほかに絵巻では高山寺の「鳥獣戯画」の動物を擬人化してユーモアをたたえた異色の表現があり、一方には浄土教の思想の中からあらわれてくる地獄草紙、餓鬼草紙のグロテスクな表現がある。それはまた末法の社会の現実と人間存在をみつめたリアリズムでもある。

4. 工芸

平等院鳳凰堂や中尊寺金色堂内陣はさまざまな工芸技術を駆使して生まれた総合的な装飾空間である。とりわけ金色堂内陣の絢爛たる蒔絵(まきえ)、螺鈿あるいは飾り金具の豊饒さは圧巻といえる。蒔絵の「片輪車螺鈿蒔絵手箱」(東京国立博物館)は、流水に牛車の車輪がうかぶ抒情的な作品で、その優雅な形体とともに王朝の美意識の粋を感じさせる。時代末期の厳島神社の古神宝「松喰鶴小唐櫃(からびつ)」には、黒漆の地に金銀の研出(とぎだし)蒔絵がほどこされている。文様は中国の花喰鳥文が和様化したもので、平安貴族の間でこのまれたものである。金工で和様化がすすんだものが和鏡で、一群の羽黒鏡は日本的な花鳥の意匠を優雅にあらわしている。書と料紙装飾の一体となったものに西本願寺本「三十六人集」があり、技巧をつくした華麗な料紙に仮名が絶妙に調和している。平安後期には貴族が写経をきそい、多くの装飾経が生まれた。「紺紙金字一切経(中尊寺経)」、四天王寺の「扇面法華経冊子」、平氏の王朝趣味への耽溺(たんでき)をしめす厳島神社の「平家納経」などがそれである。

なお、この時代の能書家に小野道風、藤原佐理、藤原行成がおり、三蹟といわれる。