日本美術
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日本美術
II. 縄文・弥生・古墳時代の美術
1. 縄文時代

縄文時代は前1万年ごろから弥生時代のはじまる前300年ごろまでの間に日本のほぼ全域に広がった新石器時代を総称する。この時代の美術をもっとも特色づけているものが縄文土器である。その名称は土器の表面に繊維をよった縄をおしつけるようにしてつけられた装飾文様に由来する。縄文人の生活は狩猟や漁労を中心とする採集文化であったが、しだいに小規模ながら集落が形成され、列島の温暖化にともなって定住化がすすんでいった。縄文土器も生活環境の変化を反映して器種のレパートリーは豊かになり、その大きさは多様化し、装飾文様も複雑化してゆく。

装飾への意欲の高まりは中期になって最高潮に達する。関東から中部地方にかけてボリューム豊かな彫塑性をしめす勝坂式土器、新潟県には炎がもえあがるような華麗な装飾から火焔土器と称される馬高(うまだか)式土器が出現する。こうした豊饒(ほうじょう)な装飾性は後期以降は沈静化し、器本来の機能性を重視したものになっていく。この傾向は沈滞というよりは装飾の一種の洗練化とみるべきで、後期には黒い光沢の肌をもつ磨研土器が普及する。土器のほかに注目すべきは土偶である。装飾性が頂点に達した中期には彫塑的な土偶がみられ、後期以後はみみずく土偶、眼鏡をかけたような遮光器土偶もあらわれて、これらは呪術的色彩が濃厚である。

縄文美術は外来文化の影響が少なかったために、1万年近い長期にわたる変遷は比較的緩やかなものであった。縄文という装飾法もほぼ全期間を通じてもちいられ、縄文美術は世界の新石器時代の美術の中でも特筆すべき洗練に達したのである。

2. 弥生時代

前300年ころ、西日本を中心に本格的な農耕文化がはじまり、また鉄器もつたえられた。金属期文化の誕生である。戦前、東京本郷弥生町で発見された壺から命名された弥生時代は、紀元300年ころまでつづく。農耕は社会に大きな変革をもたらした。稲作によって規則的な生活がいとなまれ、集落は拡大し、農産物の蓄積は貧富の差を生じた。それは権力の誕生につながっていく。

弥生土器の文様は簡素で規則的、あくまでも器の美しさが特色で、装飾はその形と機能をそこなうことがない。後期にはしだいに無文様化し、古墳時代の土師器(はじき)へと接近してゆく。弥生美術を特色づけるものに青銅製の銅鐸がある。これは宗教的な儀礼に使用されたものとされる。西日本を中心に出土しており、堂々たる大型のものに発展していく。装飾は流水文と袈裟襷文(けさだすきもん)が典型的なもので、人や動物の姿、建物などが記号的に表現されている。流水文のよどみない美しさは、のちの日本美術の特質となる自然をみつめる感性に遥かにつながっているようである。弥生時代の土器や銅鐸の整然とした形は呪術性のこい縄文土器とはすでに異質の世界である。

3. 古墳時代

3世紀の末から4世紀の初めにかけて古墳の造営がはじまる。このころから日本に仏教が伝来した6世紀ごろまでが古墳時代である。集落は大規模なものになり、階級が生まれ、複数の集落を首長が統治している。古墳はその支配者の墳墓であり、支配者をあつくとむらうとともに亡き支配者の権力をつぐ者の新たなる権力を誇示するものであった。多彩な副葬品を生んだ古墳時代の美術は葬礼の美術の性格をもっていた。

特徴的なものにまず埴輪がある。埴輪は中空の素焼きで、古墳を神聖な区域として区切るために墳丘の周りにめぐらされた。そのおもな種類には円筒埴輪や形象埴輪があり、家の形や武具をはじめとして多彩である。とくに動物や人物の素朴な表情は、一種のユーモアをたたえて古代人の感性を素直につたえている。土器には古墳時代の初期に素焼きの土師器がみられ、中期には朝鮮半島の製陶技術がつたわって、よりかたく焼きしめた須恵器があらわれている。

一方、日本最古の絵画資料として装飾古墳があげられる。これは石室の壁面や石棺を装飾するもので、幾何学的な文様の壁画をもつ熊本のチブサン古墳のように、壁画は九州に多く分布している。なお、石人山(せきじんやま)古墳の石棺などにきざまれた特徴的な文様に直弧文がある。これは直線と弧線とを複雑にくみあわせた日本固有の文様で、銅鏡などにももちいられている。

この時代、大陸からの文物の影響は弥生時代とは比較にならないほど増大する。4世紀半ば以後には、畿内に大和朝廷が成立し、統一国家の誕生をもって大陸文化の巨大な波をうけとめる器ができあがった。