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| IX. | 桃山時代の美術 |
桃山時代の美術は、将軍足利義昭がおわれて室町幕府がたおれる1573年から江戸時代の初頭、豊臣氏が滅亡する1615年(元和元)までをふくむ。歴史では安土桃山時代ともよばれ、戦国時代を統一した織豊、すなわち織田信長と豊臣秀吉が政権を掌握した時代である。近世へと移行するわずか半世紀にもみたない短い期間であるが、この時代の美術は戦国時代に準備されていたエネルギーがいっせいにときはなたれた美術の黄金時代であった。黄金—それは現世肯定的な桃山時代の華麗なイメージの基調をなすものである。
| 1. | 建築 |
城郭建築のめざましい隆盛は美術全体に活気をもたらす。中世までの城は山地にかまえる防御的な性格の山城であるが、この時代の城は丘陵地帯にかまえる平山城、平地にきずく平城が主流となり、居住性にもすぐれた大規模な城郭建築が生まれた。そこでは天守という城の中心をなす高楼が特徴で、信長の安土城、秀吉の大坂城が代表的な例である。慶長年間(1596~1615)の最盛期には姫路城、彦根城などが続々と造営された。また秀吉が京都にきずいた聚楽第は武将の館の性格をもつ城であった。
社寺建築も復興期をむかえる。園城寺、東寺、北野天満宮などの復興があいつぎ、醍醐寺三宝院表書院や伊達政宗の瑞巌寺本堂などで書院造の大成をみるのもこの時代である。また霊廟建築として秀吉をまつる豊国廟は一部が琵琶湖竹生島の宝厳寺、都久夫須麻(つくぶすま)神社に移築されており、その華麗な装飾性は桃山美術の気分をよくうつしている。こうした豪華な空間が展開される中で、茶の湯は千利休の出現によって侘茶の精神性を深めて草庵の茶室に結晶する。利休の茶室は妙喜庵待庵がのこるのみであるが、主客が対峙(たいじ)する2畳という極小の簡素な空間の中には数寄(すき)、つまり風流をこのむ精神が凝縮されて生きている。その姿は城郭や書院の豪華な格式とは対極をなす静謐(せいひつ)の空間である。
| 2. | 絵画 |
絵画では金碧(きんぺき)障壁画の時代が到来する。力を誇示する天下人の大規模な城郭建築はそれにふさわしい内部の装飾をもとめた。力強く、しかも統一感のある明快な表現と主題。それを実現させたのが狩野元信の孫、狩野永徳である。1566年(永禄9)、24歳の永徳は大徳寺聚光院に巨木を中心にすえた躍動的な「四季花鳥図襖」を描き、新時代の到来をつげた。信長は彼に安土城の天守御殿の障壁画をゆだね、ついで永徳一門は秀吉の大坂城、聚楽第をも担当して桃山前期の様式を決定づけた。これら信長や秀吉のための障壁画は城郭と運命をともにして今はみることができないが、「唐獅子図屏風」(宮内庁)、晩年の「檜図屏風」(東京国立博物館)に重厚なその様式の完成をみることができる。
50歳間近で急逝した永徳のあと桃山後期の狩野派の伝統をつぐのは長男光信、弟子山楽らである。光信の表現は父永徳にくらべより抒情的なもので、永徳独自の威圧感は後退している。むしろ光信の作風に通じながら永徳の豪放な気風をつぐのは山楽であり、大覚寺宸殿(しんでん)の障壁画の諸作がそれをしめす。以後狩野派は一段と装飾的な画面構成にむかっていった。
永徳の天才がリードした前期にくらべると、桃山後期の画壇は狩野派以外の画家たちも頭角をあらわして、群雄割拠の観を呈してくる。わけても長谷川等伯が息子久蔵ら一門をひきいて制作した智積院の金碧障壁画は、巨木を軸にしながらも装飾的な意匠と抒情性を融合して、日本美術を貫流する特質をあざやかにしめしている。金碧障壁画とは別に、彼には水墨の「松林図屏風」(東京国立博物館)がある。それは彼のまなんだ牧谿とも室町水墨画ともことなり、日本の自然を日本の感性で描いた、おそらくはじめての水墨画である。海北友松は武家の出身で、彼もまた宋元画にひかれた。建仁寺本坊方丈に描いた水墨障壁画「花鳥図」のはげしい気迫は、武人にふさわしい雄渾(ゆうこん)な表現である。
漢画系の活躍に対し、やまと絵の本流土佐派はふるわなかった。だが、土佐の画系とははなれたところからやまと絵が復活する。京都の上層町衆の出身の俵屋宗達は、本阿弥光悦の書との競作で、金銀泥の華麗な料紙装飾の世界に卓抜な意匠感覚をふるった。彼は江戸期に入ると古典を自在に解釈する大画面にいどんでゆく。
平和を謳歌する時代の気分を反映するかのように、風俗画が台頭してくる。それは狩野派の画家たちがこの分野に新たに筆をそめたことからはじまった。狩野秀頼作「高雄観楓(かんぷう)図屏風」(東京国立博物館)は近世初期風俗画のはやい例であり、京都の街の景観をパノラマ的に描く「洛中洛外図」は、永徳筆とみられる上杉家本や舟木家本が桃山時代の作品である。さらに狩野内膳筆「豊国祭礼図屏風」(豊国神社)、狩野長信筆「花下遊楽図屏風」(東京国立博物館)は人々のファッションの細部までクローズ・アップしてみせる。南蛮趣味は風俗画に南蛮屏風と洋風画という異色の彩りをくわえた。南蛮屏風でも狩野派の画家たちが主導的な役割をはたしているが、ポルトガル人の風俗を主題としながら空間表現は西洋風ではない。一方の洋風画はキリスト教のセミナリヨ(神学校)の聖画像にはじまるもので、「泰西王侯騎馬図屏風」(→ 神戸市立博物館)などの世俗的な作品には、きわめて空想的な異国趣味がもりこまれている。これはわが国最初の西洋絵画との出会いであったが、キリシタン禁制のために短命におわった。
| 3. | 工芸 |
工芸の分野ではまず、侘茶の流行によって茶陶に大きな展開をみせた。京都では侘茶の精神を具現するものとして、千利休の指導によって長次郎が楽焼を創始する。美濃では瀬戸黒、黄瀬戸、志野、織部がつくられる。また伝統の備前、信楽、伊賀でも茶陶の需要はまし、秀吉の文禄・慶長の役では朝鮮半島から陶工をつれてかえり、萩、唐津などの窯を開くことになった。利休好みの落ち着きのある長次郎の楽焼に対し、利休の門下で武将の古田織部(ふるたおりべ)の好みによる織部焼は「ひょうげもの」とよばれるゆがみ、ひずみの美を重視した大胆な意匠によって個性を主張している。金工でも茶の湯釜が盛んにつくられ、芦屋、天明(てんみょう)にかわって京釜が勢いをもち、利休の釜師として辻与次郎が出ている。武具では、兜(かぶと)にサザエや団扇をあしらうなど異形ともいえる奇抜な意匠がみられる。こうした造形は織部の作為のまさった表現にも通じるものがある。
桃山時代の漆工は高台寺蒔絵と南蛮漆器に代表される。前者は秀吉の夫人北政所が創建した高台寺の霊屋内陣を華麗に装飾したもので、黒漆に秋草の意匠の蒔絵は、北政所がもちいたという調度品にも同様にほどこされている。南蛮漆器は南蛮の風俗や十字架を意匠にあしらった新奇な異国趣味をしめている。染織では金銀の箔に刺繍をくわえた豪華な能衣装が制作され、辻が花染が誕生したのも前代末からこの時代の初期にかけてのことである。
| 4. | 彫刻 |
あらゆる美術分野が活況を呈する中で仏教彫刻のみは表現も硬化して、ついに低迷から脱することができなかった。わずかに遠く運慶の系譜につらなる七条仏師の康正(こうしょう)に東寺の金堂薬師如来像の制作がある。この時代には建築を装飾する彫刻にむしろ自由な表現がみられる。