| 中世 | 項目ビュー | ||||
| 印刷するには、[ファイル] メニューの [印刷] をクリックします。 | |||||
| II. | ヨーロッパの中世 |
「中世」という言葉自体は、15世紀末にイタリアではじめて使用されたともいわれるが、そこには「進歩の停滞」という否定的な意味合いがふくまれていた。現代では、歴史家たちはヨーロッパの中世をさらに3つの時期にわけて考察し、それらを通じて中世社会や中世文化の豊かな多様性を明らかにしている。
| 1. | 古代から中世へ(5~10世紀) |
古代の終わりと中世の開始をつげる決定的な事件というものはない。たとえば、476年に西ローマ帝国の皇帝が廃位されたことも、当時の人々にとっては時代を画するような出来事とみなされたわけではなかった。むしろ古代の終わりとは、ゲルマン人の移動と定住をはじめとするさまざまな変化が長期間つみ重なるうちに、社会の現実が根本からかわってしまったことによるものといえる。こののちも、ローマ文明はヨーロッパでけっしてわすれられたわけではなかったが、文化はほぼ300年の間基本的に低い次元にとどまることになった。
| 1.A. | 政治権力の分散 |
この時期、ゲルマン諸部族はしだいにいくつかの王国にまとめられていった。しかし発達した統治機構はほとんど存在せず、政治や経済の発展は個々の地域に限定されていた。貨幣経済は完全に消滅したわけではなかったが、地域をつなぐ商業活動はおとろえた。また農民たちは土地にしばられ、領主の保護と裁判権に依存するようになった。戦士である貴族の間では、親族関係がもっとも重視されたが、封建的な結びつきもしだいに姿をあらわしつつあった。これは土地をあたえるかわりに軍事やその他の奉仕を要求するもので、ローマ時代末期の恩貸地制とゲルマンの従士制とが結合してできたものとされる(→ 封建制)。こうした人間関係は、みな政治的統一への努力をさまたげるものとなった。
| 1.B. | 教会 |
この時代のヨーロッパで唯一普遍的な組織は教会だった。しかし教会においても、権力はそれぞれの地域の司教ににぎられており、分散した状態にあった。たしかに教皇は、ローマ司教として使徒ペトロにつらなる権威をもってはいた。しかし教皇を頂点とする教会組織は、その後も500年間発達することはなかった。教会はキリスト教を信仰する人々のたんなる精神的な共同体でしかなく、キリスト教を真にささえたのはむしろ修道院だった。
ただし、こうした分散状態の中にあっても、典礼や暦、あるいは修道院の規則などを統一しようとする試みがなされなかったわけではない。またそれとならんで、ローマ帝国による統一的支配の記憶も保たれていた。そして9世紀になると、カロリング王家の台頭によって、ローマの遺産にもとづくヨーロッパの新たな統合がこころみられた。
| 1.C. | 文化と学問 |
初期中世の文化活動は、基本的には古代の知識を吸収し、体系化することにあった。古典作家たちの著作がうつされ、解釈がなされた。またセビーリャのイシドルスの「語源録」のような、百科全書的な書物も編纂された。さらにこうした学術的な活動の中心にあったのが聖書で、世俗的な学問はすべて聖書を理解するための準備とみなされた。
9世紀から10世紀になると、北からはバイキングが、またアジアのステップ地帯からはマジャール人が到来し、初期中世は民族の新たな移動によって終わりをむかえた。ここから生じた混乱によって、ヨーロッパの統合や拡大の試みも後退した。また土地はたがやされずに放棄され、人口も減少するなどして、文化はまたもや修道院の中にとじこめられることになった。けれども古代の知識を吸収しようとする努力の成果はうしなわれず、その結果、ヨーロッパはローマ文明にユニークなかたちで接(つ)ぎ木されたものとなった。
| 2. | 中世社会の確立(11~13世紀) |
1050年ごろになると、ヨーロッパはそれまでになかったような発展期をむかえた。民族移動の時代はおわり、定住人口も飛躍的に増大して、封建制の浸透と拡大の一方でダイナミックな経済成長がみられるようになった。都市が復活し、商人ギルド、職人ギルドの活躍にともない大規模な商業も発展した。盛期中世の社会や文化は活力にみち、革新的なものであり、現代の歴史家はこの時代を「12世紀ルネサンス」ともよんでいる。
| 2.A. | 教皇の権力 |
盛期中世の間、ヨーロッパでもっとも発達した統治機構をそなえていたのは、ローマ・カトリック教会だった。教皇は教会の絶対的な頂点に君臨し、イタリア北部や中部の領土を直接支配しただけでなく、外交や教会裁判を通じてヨーロッパ全土に指導力を発揮した。
またこのころには修道院も発展して、世俗社会と深くかかわるようになった。古くからあるベネディクト会も、封建社会の網の目にくみこまれた。また新たに創設されたシトー会は、耕地の開墾者として名をはせた。現世を放棄し、自発的な貧困に生きるフランシスコ会のような新しい運動も、じきに勃興(ぼっこう)する都市生活の中にくみこまれていった。教会はこうして、現世の中心に位置するものとなった。
また他方で盛期中世の宗教は、個人の内面に深く根ざすものとなった。たとえばキリストの人間性に対する感情的な同一化や、聖母マリアへの信仰などにも、キリスト教の内面化の動きがあらわれている。
| 2.B. | 知的探究 |
学問の領域においても、新しい知的関心がめばえた。聖堂や修道院に付属する学校が発達し、やがて最初の大学も設立された。医学・法学・神学などの高度な教育もおこなわれるようになり、各分野で知的な探究がすすめられた。アラビア人によってつたえられた古代の医学書が再発見されたり、教会法やローマ法の検討もおこなわれた。こうした探究は、やがてスコラ学という学問の新しい方法論を生みだして、神学をはじめとするすべての分野で豊かな成果をもたらした。こうして12世紀は、ヨーロッパにおける哲学の偉大な開始をつげるものとなった。
| 2.C. | 芸術における革新 |
革新は芸術の分野でもみられた。文字の読み書きは、もはやたんに聖職者にだけもとめられるものではなくなり、その結果、ラテン語ばかりでなく、俗語による新しい文学も開花した。恋愛詩、宮廷文学、あるいは歴史書などが多数書かれるようになり、人生や社会の様相を活写した。絵画においても、新たな感情表現がこころみられ、自然や日々の労働がえがかれるようになった。建築においては、南フランスの巡礼路にそってたてられた教会堂などを通じてロマネスク様式(→ ロマネスク美術)が完成され、さらにゴシック様式(→ ゴシック美術)へと発展していった。
| 2.D. | 新しいヨーロッパの統合 |
12世紀に達成された事柄は、13世紀に入るとさらに整理され、総合された。教会組織はヨーロッパをささえる一大制度となった。またイタリアの銀行家を中心に商業や金融活動も活発に展開され、ヨーロッパ全土がひとつの経済圏にまとめられた。巡礼であれ、商売であれ、人々の移動もより頻繁になされるようになった。さらにこの時代は、十字軍の遠征によっても知られている。十字軍は、11世紀末にイスラム教徒の支配からキリスト教聖地を奪回すべく教皇によってよびかけられたもので、階級や職業をこえて多くの人々を魅了した。
こうした国際的な宗教的遠征も、教会に中心をおくヨーロッパの一体化のもうひとつの現れということができる。盛期中世はゴシック建築や、トマス・アクィナスの哲学、そしてダンテの「神曲」などに、その文化的達成をみた。
| 3. | 中世社会の解体 |
盛期中世が制度の統一や学問における総合を特徴としたのに対し、後期中世は、それまでに達成された事柄が紛争をともないつつ解体していった時代といえる。国家が発展するのもこのころからで、教会と国家がたがいに優位をめぐって争うことが、こののちヨーロッパでは数世紀間つづくことになった。また中世都市はさらに拡大して繁栄をきわめ、政治的な自治を追求する一方、都市の内部でも支配をめぐる階級間の闘争がみられた。
| 3.A. | 政治学の始まり |
こうした紛争のひとつの結果として、国家を教会から独立したものとみなす考え方があらわれ、政治や社会をめぐる考察が盛んにおこなわれるようになった。こうした議論の出現は、神と人間に関する知と経験のすべてを総合しようとした中世哲学のもくろみが、この時代にはもはや不可能になったことをつげるものでもあった。哲学的探究は、こうして個々の分野へと特殊化し、専門化していったが、そこにはまた新たな時代の芽ばえをみることもできる。たとえば物理学のような自然界の経験主義的な探究も、もとをただせばこの時代に開始されたといえる。
| 3.B. | 新しい信仰 |
哲学のこうした展開のほかにも、後期中世の社会や文化の混乱をしめすものとして、宗教の問題がある。後期中世の宗教は、神に直接むすびつこうとする熱烈な願望に特徴がある。そこからキリストや使徒たちの純粋さにならい、またキリストの生涯を模倣しようとする新たな共同体が組織されるようになった。
多くの場合、これらは黙示録的(→ 黙示文学)な、あるいはメシア的な熱狂をおび、後期中世を通じて不断の危機にみまわれた都市で、めぐまれない地位にあった労働者たちの間にひろがった。たとえば1340年代に黒死病が突然流行し、ヨーロッパの人口の約3分の1が死亡すると、贖罪会(→ 贖罪)や鞭(むち)打ち苦行団などの集団が出現するようになった。またメシアや聖人を自称するカリスマ的人物につきしたがい、新たな使徒時代の訪れを夢みる者たちが、ヨーロッパ中にみられるようになった。
宗教生活のこうした混乱や革新が、ついにはプロテスタント改革(→ プロテスタンティズム)の出現につながった。また「国民」という新しい枠組みの形成が、近代における国民国家の確立をもたらした。さらには商業や金融活動のいっそうの拡大が、ギルドの閉鎮性や中世都市の限界をこわし、やがておこるヨーロッパ経済の革命的変化の基礎となった。このように中世世界の解体や、社会や文化の混乱の中に、近代世界の種子をみいだすこともまた可能だといえよう。