エトルリア文明
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エトルリア文明
II. 歴史

エトルリア人社会では、はやくから政治・軍事・経済・宗教上の実権をにぎった首長による支配がおこなわれていた。前6世紀までに、タルクイニア、ウェイイ(ベイオ)などの都市国家はそれぞれに地方支配をかため、さらに近隣の植民活動によって勢力を拡大した。エトルリア人でローマの王になったといわれるタルクイニウス・プリスクスとタルクイニウス・スペルブスをはじめとするエトルリア人都市国家の王たちは、おそらく軍事指導者として支配権をにぎったと思われる。これらの都市国家は、共通の政治的・経済的利害のためにエトルスキ連合とよばれる同盟をむすんだ。

しかしエトルリアは、前5世紀までにローマ人、ギリシャ人、カルタゴ人などの挑戦をうけるようになり、その勢力はおとろえていった。前474年のキュメ沖の海戦で、シラクーザはエトルリア海軍を徹底的にうちやぶった。陸上では、ウェイイがローマ軍による約10年にわたる包囲戦ののち、前396年に破壊された。その後、前3世紀前半まで、ローマによるエトルリア征服活動がつづいた。

前3世紀、ローマはすでにイタリア半島の中・南部の大部分を征服していたが、エトルリア進出をさらに強めた。カエレ、タルクイニア、ブルチといった都市は貢税を課され、領土を割譲させられた。当時エトルリアの諸都市では、貴族間の党派争いや下層民の反乱がおき、ウォルシニイのように破壊された都市もあった。いっぽういくつかの都市は、ローマとの同盟関係にはいった。

エトルリア人とウンブリア人、ガリア人との反ローマ連合の試みは、前283年に打倒された。いっぽうローマと同盟をむすぶ都市がふえ、ローマのエトルリアへの影響が強まった。前1世紀初めの同盟市戦争により、ローマと同盟をむすんでいたエトルリアの都市もローマ市民権を獲得したが、その後におきたローマの内乱(前88~前86、前83)で支配権をにぎったスラは、マリウス派を支持したエトルリア人の都市を破壊し、国土を没収し、ローマ市民権をとりあげた。これによりエトルリアは荒廃したが、その後カエサルは、追放されたエトルリア人に土地をあたえ、占い師たちを重用した。

しかしカエサルの後継者オクタウィアヌスは、ふたたびエトルリア人の土地にローマ兵による植民をおこない、抵抗したエトルリア人たちを大量処刑した。皇帝アウグストゥスとなったオクタウィアヌスは、エトルリアのローマ化をおしすすめた。その結果、エトルリア語を話すことができる人々はとだえ、エトルリアの建築技術や陶芸技術はローマ文化に重要な影響をのこしたが、エトルリア文明の独自性は消滅した。