| 検索ビュー | フィンランド | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
ヨーロッパ北部、スカンディナビア半島の付け根にある共和国。正式国名はフィンランド共和国。フィンランド語ではスオミという。西でボスニア湾、南でフィンランド湾に面する。ボスニア湾の入り口には、約6500の島々からなるアハベナンマー諸島(スウェーデン語ではオーランド諸島)がある。面積は33万8145km²で、国土の約4分の1は北極圏にある。人口は523万8460人(2007年推計)。首都は最大都市のヘルシンキ。
| II. | 国土と資源 |
サイマー湖、イナリ湖、パイヤンネ湖に代表される約6万の湖があり、湖沼の総面積は3万3551km²におよぶ。おもな河川はトルニオ川(スウェーデンではトルネ川)、ムオニオ川、ケミ川、オウル川で、大型船が航行できるのは、オウル川だけである。
国土のほとんどが標高約120~180mの高地にある。北部では丘陵地帯が広がり、最北西部には山地がつらなる。最高峰は、ノルウェー国境近くの北西部にあるハルティア山で、標高は1328m。
| 1. | 気候 |
メキシコ湾流とバルト海の影響により、気候は高緯度のわりに温和である。南海岸の月平均気温は、7月で15.6°C、2月で-8.9°Cである。年降水量は北部で460mm、南部で710mm。降雪期間は、南部では1年のうち4~5カ月間、北部では約7カ月間となる。冬の日照時間はきわめて短く、夏は北極圏では白夜がつづく。
| 2. | 植生と動物 |
国土の73.9%(2005年推計)は森林におおわれている。最南部ではポプラ、ハンノキ、カエデ、ニレなどの広葉樹がみられるが、大半はトウヒやマツなどの針葉樹林帯で、最北部はツンドラである。植物やシダ類は約1200種、地衣類は約1000種にもおよぶ。
哺乳類は60種(2000年)が分布しており、クマ、オオカミ、オオヤマネコ、ホッキョクギツネなどの野生動物は、人口の希薄な北部に生息している。トナカイはおもにサーミランドで飼育されているが、野生では絶滅寸前である。鳥類は248種生存しており、ガチョウ、ハクチョウ、ライチョウ、ユキホオジロ、チドリといった鳥は北部に多い。また、淡水魚はパーチ、サケ、マス、カワカマスなど66種が生息しており、海水魚にはニシンやタラがいる。アザラシは沿岸地域でみられる。
| 3. | 天然資源 |
トウヒ、マツ、シラカバなどの豊富な森林が最大の天然資源である。薪や泥炭が燃料としてつかわれている。鉱石の埋蔵量も多く、銅、亜鉛、鉄、ニッケルをはじめ、金、銀、鉛、バナジウムが採掘される。花崗岩や石灰岩も豊富である。
内陸は灰色の山岳性土壌で、北部の3分の1の地域は泥炭土でおおわれている。南部の海岸地域は肥沃(ひよく)で、海洋性の粘土からなる。
水資源も豊かだが、近年は水不足で水力発電量が減少している。2003年は総発電量796億kWhのうち、水力による発電は11.7%であった。
| III. | 住民 |
総人口は523万8460人(2007年推計)。人口密度は17人/km²で、ヨーロッパでもっとも人口の希薄な地域といえる。人口の3分の2以上は南部に居住している。
| 1. | 言語と宗教 |
全人口の92%がフィンランド語を話すが、約6%はスウェーデン語を使用している。スウェーデン語系住民は、アハベナンマー諸島と南西部沿岸に多い。フィンランド語はウラル語族、スウェーデン語はインド・ヨーロッパ語族に属す、まったくことなる言語である。公用語はフィンランド語とスウェーデン語で、公的な言語として、どちらか1言語を使用するか2言語併用とするかは自治体によってことなる。スウェーデン語系住民は、その数はへっているとはいえ、政党や学校などに独自の組織をもっている。ほかに、先住民族のサーミ人が北部のサーミランドを中心に居住している。フィンランドのサーミ人は約7500人、その中でサーミ語(フィンランド語と同じ系統)の話し手は3500人ほどといわれる。サーミ人がすむ地域の自治体はサーミ語も公用語としている。
全人口の約85%は福音ルター派教会の信者だが、宗教の自由は保障されている。東方正教会系のフィンランド正教の信徒の数は第2次世界大戦以降、急減し、人口の1%にすぎない。
| 2. | 行政区分と主要都市 |
フィンランドは、6つの州にわけられている。6州のうち、スウェーデン系住民が多くすむオーランド(アハベナンマー)は独自の政府をもつ自治州である。
主要都市は、工業、貿易、学問の中心である首都のヘルシンキ(人口55万9046人(2005年推計))のほか、工業の盛んなタンペレ、古都トゥルクなど。
| IV. | 教育と文化 |
| 1. | 教育 |
識字率は100%。義務教育は7~16歳で、この間、6年間の初等課程と3年間の中等課程からなる9年制の総合学校で基礎教育をうける。総合学校を修了すると、大半の生徒は、普通教育がおこなわれる高等学校か、基礎的な職業資格にむすびつく職業学校に進学する。これらの中等教育も、義務教育同様に無料である。フィンランドの職業教育は1990年代半ばに改革がおこなわれ、高校レベルの職業教育は、コース別の専門的学習よりも幅の広い学習がめざされるようになった。これまで、農業、工業、商業、家政、芸術・工芸など産業部門ごとにわかれていた学校も、近年は総合職業学校にかわる傾向にある。
高等教育機関としては、従来は総合大学および単科大学や教員養成大学があったが、改革により、職業学校の高等課程が、イギリスのポリテクニックに似た高等職業専門学校(AMK)に再編され、現在は20の総合大学と25のAMKの2本立てとなっている。総合大学は、1640年にトゥルクに創立され、1828年に移転したヘルシンキ大学が最大で、このほかトゥルク大学(1919年創立)、オウル大学(1958)、タンペレ大学(1966)などがある。成人教育も広範におこなわれており、寄宿制の市民カレッジや夏期大学でまなぶ社会人も多い。
| 2. | 文化 |
12世紀初期にスウェーデンがフィンランドを征服して以降、フィンランド文化はスウェーデンから多大な影響をうけ、現在にいたっている。農民たちは、チターに似た楽器カンテレの伴奏で伝統的な叙事詩をうたい、木彫りや敷物に伝統的な色使いで螺旋(らせん)や卍(まんじ)といった簡素な幾何学模様を装飾してきた。しかし、知識層ほどスウェーデンの影響は強く、一部の例外をのぞき、文学はスウェーデン語で書かれた。スウェーデンの文化自体がヨーロッパ諸国の影響をうけているため、フィンランドの芸術作品や建築もイタリア、ドイツなどの文化を反映している。
19世紀になると芸術家たちは自国の伝統を復活させようとつとめ、フィンランド語をもちいた文芸作品や、フィンランド風の美術や建築物もあらわれるようになった。20世紀には、エリエル・サーリネン、アルバー・アールトーらの活躍でフィンランドの近代建築が注目された。家具、ガラス器、テキスタイルなどのシンプルな「北欧デザイン」も世界的に名高い。文学については、フィンランド文学を参照。
| 3. | 図書館と博物館 |
全国に1500以上の図書館がある。主要な図書館としては、蔵書数約210万冊のヘルシンキ市立図書館、国会図書館として機能している蔵書数約260万冊のヘルシンキ大学図書館がある。
第2次世界大戦後、博物館の数がふえ、現在300以上にのぼる。ヘルシンキの国立博物館には民族学、考古学関連の展示物がおさめられている。このほかマンネルヘイム博物館、ヘルシンキ市立博物館、トゥルクの美術館などがある。
| 4. | 音楽 |
フィンランドは民族音楽と教会音楽の宝庫である。教会音楽は、12世紀にキリスト教が普及して以降、発展した。宗教改革の時代には、それまでラテン語でうたわれていたグレゴリオ聖歌や宗教曲がフィンランド語でうたわれるようになった。
フィンランドの音楽は、19世紀中ごろから西ヨーロッパの音楽を吸収して発展した。これに際しては、ドイツ出身の2人の音楽家、作曲家パシーウスと指揮者でフィンランド民謡の収集家でもあったファルティンの貢献が大きい。フィンランド生まれの最初の作曲家ウェイゲリーウスは、自国の音楽の発展に大きく寄与した。また、作曲家でヘルシンキ交響楽団の指揮者でもあるカヤヌスは、フィンランドの音楽をヨーロッパ中に紹介していた。
19世紀後期までこの国の作曲家はドイツの影響を強くうけていたが、パシーウス、ファルティン、ウェイゲリーウス、カヤヌスはフィンランドの民族音楽を作品にとりいれ、カヤヌスの弟子であるシベリウスが本来の意味で民族音楽を完成させて、フィンランド音楽の評価を国際的に高めた。
1993年12月、ヘルシンキに国立歌劇場が完成し、国立オペラと国立バレエ団の拠点となっている。近年、サリネン、ラウタバーラ、ベリマン、コッコネンなどの作曲家によるすぐれた歌劇が多数生まれている。
| V. | 経済 |
第2次世界大戦以降、フィンランドは高インフレ、高失業率、莫大(ばくだい)な対外債務といった経済問題をかかえていた。その後、工業部門が拡大し、1960年代後期までに工業の労働人口は農林業をうわまわり、貿易収支は改善された。公共サービスをのぞき、工業と商業では民間企業が活躍しているものの、多数の規制により政府が経済活動に大きく介入している。90年代前半には、主要貿易相手国だったソビエト連邦崩壊の影響などでマイナス成長となり財政赤字がふくらんだが、その後の緊縮財政と携帯電話などの情報産業の発展によって回復。90年代後半から2000年にかけての経済成長率はヨーロッパ諸国中トップクラスにランクされる。2005年のGDP(国内総生産)は1931億6005万米ドルで、1人当たりのGDPは3万6819.70米ドルである。
| 1. | 農林漁業 |
農業は肥沃な海岸地域に限定されている。耕地は国土の7.4%(2005年推計)にすぎず、大部分の農家の所有地は20haにみたない。しかし、農家の20%以上が農業労働者を定期的にやとっている。主要な農作物はオオムギ、オートムギ、テンサイ、ジャガイモ、コムギ。家畜では家禽(かきん)、牛、豚、トナカイ、ヒツジなどが飼育されている。
森林の約60%が私有林、約25%が国有林、残りの約15%が企業か自治体が所有する森林である。2005年では年間5160万m³の材木が伐採された。漁業では、年間漁獲量は14万8700t(2004年)で、このうちの8万8883tが海からの水揚げによる。森林の伐採とバルト海沿岸地域の海水汚染によって、環境問題に対する関心が高まっている。
| 2. | 鉱工業 |
鉱物資源では銅、亜鉛、銀の採掘量が多く、ほかにクロム、鉛、ニッケル、金もとれる。
製紙・パルプ業と木工はフィンランドの工業で重要な位置を占めており、新聞用紙のほか、木材や紙製品が生産される。このほか重機、金属、船舶、印刷、食品、繊維、化学製品、ガラス器、セメントなどの工業もおこなわれている。近年は、エレクトロニクス、情報関連技術の発達がめざましい。
| 3. | 通貨と銀行 |
通貨単位はマルッカであったが、2002年1月からEU(ヨーロッパ連合)の単一通貨ユーロの紙幣や硬貨が流通し、マルッカは法的効力をうしなった。中央銀行は、1831年に創設されたフィンランド銀行だが、1999年1月のユーロ参加によって通貨金融政策はヨーロッパ中央銀行(ECB)の管理となり、フィンランド銀行はヨーロッパ中央銀行制度(ECBS)にくみこまれた。
| 4. | 外国貿易 |
2004年の輸入総額は507億米ドル、輸出総額は609億米ドルであった。おもな輸出品は、パルプ・紙・新聞用紙・製材製品、機械・輸送機器、電子機器など。おもな輸入品は機械・輸送機器、電子機器、原油、化学製品、鉄鉱石と鉄製品など。主要な貿易相手国はドイツ、アメリカ、イギリス、スウェーデン、ロシアなどである。
フィンランドは1986年にEFTA(ヨーロッパ自由貿易連合)に、95年にはEUに加盟している。EMU(経済通貨統合)には、99年1月の発足時から参加。
| 5. | 交通とコミュニケーション |
総延長約6600kmの運河網が内陸の湖をつなぎ、さらにフィンランド湾へ通じているため、製材業はこの廉価な交通手段を活用している。鉄道は総延長5732kmで、そのほとんどは国が運営、管理にあたっている。道路は総延長7万8216kmで、このうち61%が舗装されている。
航空路では、フィン・エア(フィンランド航空)が国内線、国際線を運航しているほか、国内の主要都市をむすぶカル航空がある。
電話業務の約3分の1は国営企業がおこなっている。1000人当たりの電話回線数は404回線(2005年)。携帯電話の普及はめざましく、国民の9割以上が保有している計算になる。インターネットの使用率がもっとも高い国のひとつでもある。テレビ・ラジオは民放局もあるが、国営のフィンランド放送が中心で、フィンランド語放送とスウェーデン語放送がおこなわれている。新聞は、フィンランド語紙、スウェーデン語紙が多数あり、人口当たりの発行部数はヨーロッパでもっとも多い。
| 6. | 労働 |
労働人口は266万人(2005年)である。労働組合の中央組織には、労働組合中央組織(SAK)、フィンランド技術労働組合連合(STTK)、フィンランド学術専門家労働組合連合(AKAVA)の3つがある。
| VI. | 環境問題 |
フィンランドが直面している重大な環境問題は、大気汚染から生まれる酸性雨である。酸性雨は、建築物、土壌、森林、魚類、野生動物に被害をあたえ、その存続をおびやかしている。20世紀後半に国連ヨーロッパ経済委員会硫黄議定書が発効して以来、フィンランドでは大気中への排出物質が着実に減少しつつある。だが、いまだに周辺の国々から、硫黄酸化物などの汚染物質が国境をこえて入りこみ、酸性雨をもたらしている。
公園や保護区に指定されているのは国土の3.1%(2004年)で、西ヨーロッパ諸国にくらべると割合は低い。一方でフィンランドは国土の3分の2以上が森林におおわれており、ヨーロッパ有数の森林国である。政府は長年にわたって林業を規制しつづけ、国の貴重な森林資源をまもってきた。そのためフィンランドにおける森林伐採率はきわめて低い。
フィンランドには6万以上の湖があり、湿地帯の占める割合も多い。これらの湿地帯は鳥類や動物のまたとない生息地になっており、数多くの種がみられる。しかし20世紀の間に、泥炭の採掘や農業排水のために、これらの湿地帯は大幅に減少した。フィンランドの湖のほとんどは水深が浅いため、酸性雨による被害をうけやすい。
| VII. | 政治 |
フィンランドは、大統領を国の元首とする共和国である。憲法は1919年に制定、80年代から数次にわたり改正されて、大統領権限は弱まっている。
| 1. | 行政・立法・司法 |
大統領は直接選挙でえらばれ、任期は6年、2期までにかぎられる。選挙権は18歳以上の国民にあたえられている。大統領は、政府の提案にもとづいて事案を決定する。議会で採択された法案を拒否することができるが、法案の再決定権は議会にある。政府は、議会に対し責任をもつ。政府の活動を指揮する首相は、議会で選出され、大統領により任命される。他の閣僚は、首相の提案にもとづいて大統領が任命する。なお、司法長官(大統領が任命)が、政府と大統領の行為の合法性などを監督し、閣議にも参加する。
議会は一院制で、比例代表制の直接選挙により選出される200名の国会議員で構成されている。議員の任期は4年。
民事および刑事裁判は、地方裁判所、控訴裁判所、最高裁判所であつかわれる。このほか、行政をめぐる異議や訴訟をあつかう地方行政裁判所、最高行政裁判所がある。
| 2. | 政党と地方自治 |
おもな政党には、中道左派の社会民主党(SDP)、小規模農家の支持をうけ、自由経済を擁護している中央党(Kesk)、人民民主同盟と共産党が合併してできた左翼同盟(V)、民間企業の擁護者である国民連合(Kok)、スウェーデン系住民を代表する中道右派のスウェーデン人民党(SFP)がある。
地方行政は、地方自治体である約450の市町村と、国の地方機関である6つの州の2層構造になっている。州の行政権は大統領が任命した知事にある。また、州議会の議員は、政党の推薦などにもとづいて中央政府が任命する。ただし6州のうち、広範な自治権がみとめられているオーランド自治州では、議会のメンバーは住民によって選出され、議会は、知事とともに行政権を行使する組織である執行委員会の委員を順番に選出する。
| 3. | 厚生 |
社会福祉制度には、老齢年金、医療保険、失業保険、家族・児童扶助、戦災保障などがふくまれる。以前は、医療は職場でおこなわれることが多かったが、1972年の健康法で全国の市町村に医療センターをもうけることや、医療費の無料化などが規定された。
| 4. | 防衛 |
徴兵制がしかれ、18歳以上の男子に6~12カ月の兵役が義務づけられている(女子は志願制)。憲法は良心的兵役拒否の権利もみとめている。陸、海、空軍があるが、1947年のパリ平和条約で総兵力は最高4万1900人に制限されている。2004年の兵力は、陸軍2万500人、海軍5000人、空軍2800人、有事に動員できる予備役は約40万人である。1994年、NATO(北大西洋条約機構)加盟への第1段階として、PFP(平和のためのパートナーシップ)協定の枠組み文書に調印した。
| VIII. | 歴史 |
フィンランドに人がすみついたのは今から9000年前で、原始的な狩猟民がおそらく東方から渡来し、居住した痕跡(こんせき)がのこる。今日の研究では、櫛目文土器(くしめもんどき)の時代、前3000年ごろには、フィン・ウゴル系の言葉(→ フィン・ウゴル語派)を話す人々がすでにフィンランドに到着していたと考えられている。前1800~前1600年ごろに南方からやってきたインド・ヨーロッパ語族の言語をもちいる人々が戦斧文化(せんぷぶんか。戦闘用の斧(おの)を副葬品とした)をもたらし、航海術と農耕技術をつたえた。戦斧文化と既存の文化が融合してキウカイネン文化が生まれた。鉄器時代は前500年ごろにはじまり、紀元前後からローマ文化との接触、鉄の冶金術の浸透によって部族国家形成への機運が高まっていった。
| 1. | バイキング時代 |
バイキング時代には東西双方からの危険にさらされた。6世紀にはスウェーデンからきたバイキングがアハベナンマー諸島を植民地化し、海賊行為や東方貿易の基地として利用した。フィンランド人はスウェーデンやゴトランド島の商人と交流し、またこの地域にもうけられた交易所から種々の恩恵をうける。11世紀末にはフィンランド系住民の領域は北緯62度まで拡大し、南西部にフィン人、内陸部にタバスティア人、東部にカレリヤ人がすむようになった。北緯62度以北の荒れ地にはサーミ人が居住していた。このとき、フィンランドに統一された国家はまだ存在していなかった。
| 2. | スウェーデンの征服 |
1050年から東方正教会とカトリック教会が布教をはじめたが、サーミ人をのぞくフィンランド人がキリスト教化されるのには2世紀以上を要している。
1155年、のちに教皇ハドリアヌス4世となるイギリス枢機卿(すうききょう)ブレックスペアの要請に応じて、スウェーデン王エーリク9世はバルト海をわたった。枢機卿の目的は、異教徒をキリスト教に改宗させることと、経済的・政治的裾野(すその)を広げることであった。エーリクはフィンランドを征服したものの、永続的に服従させることはできなかった。スウェーデンのウプサラの司教だったイギリス人ヘンリーはフィンランドにのこったが、1年後に殺害され、トゥルクの町およびフィン人の聖人となった。
1171年ないし72年の教皇勅書は、スウェーデンが恒久的な守備隊をもつ砦(とりで)を建設して、フィンランドを保護化においたことにふれている。やがてスウェーデンはフィン人とタバスティア人を征服するとともにキリスト教に改宗させ、外国貿易を支配した。1209年にトゥルクに司教区がおかれた際に教会が建設され、49年にはドミニコ会の修道院がたてられた。16年にローマ教皇はこの地方がスウェーデンの一部であることをみとめ、西と北における布教の拠点とした。
スウェーデンによる支配は、1238年と49年に十字軍を派遣したビルヤー伯によって確立される。彼は中央部のタバスティアに要塞(ようさい)をきずき、ロシア人の侵入にそなえた。92年に東方からロシアのノブゴロド公国(→ ノブゴロド)がタバスティアに侵入すると、スウェーデンはカレリヤ地方に援軍をおくったが、1323年の条約でスウェーデンとノブゴロド公国との間でカレリヤ地方を分割することとなる。
1362年、スウェーデン人と同等の権利がフィンランド人にあたえられた。その後、97年にデンマークのマルグレーテ1世がカルマル同盟を結成すると、フィンランドはスカンディナビア連合王国の統治下におかれた。15~16世紀には、フィンランドの大部分はスウェーデン人貴族の領土となり、人々は重税にくるしんだ。この時期にはスウェーデンの農民、漁民、商人がフィンランドへ移住している。
| 3. | スウェーデン公国 |
カルマル同盟が崩壊したのち、スウェーデンのグスタブ1世は経済的、政治的な改革をおこない、1527年にカトリックと断絶し、数年後にルター派教会を承認した。この間、フィンランドの大部分はスウェーデン王の所領となる。イワン4世ひきいるロシア軍との戦い(1555~57)の間に、フィンランドにスウェーデン公国が建設され、のちのヨハン3世に封土としてあたえられた。70~95年の25年間、フィンランドはスウェーデンとロシアの戦争に常にまきこまれていた。
カール9世の治世(在位1599~1611)にフィンランドの全行政機関はストックホルムにうつされ、グスタブ2世の治世(在位1611~32)になると、デンマーク、ポーランド、ロシアとの長びく戦争にくるしめられた。グスタブ2世はロシアとの戦いで優位にたち、1617年のストルボバの和議によってスウェーデン公国フィンランドの領土は東方に拡大し、イングリアにまでおよんだ。
つづく三十年戦争(1618~48)では多くのフィンランド人兵士がスウェーデンのためにたたかい、民衆は重税にくるしんだ。1656~61年のロシアとの戦争で現在の状態まで領域が縮小し、戦火と95~97年の穀物の不作によりフィンランド人の約25%が死亡する。さらに、1700~21年の北方戦争ではスウェーデンをやぶったロシアに占領され、21年のニースタードの和議で東部の大部分をうしなった。その後もロシア軍の進攻はつづき、このころスウェーデンからの独立がさけばれはじめた。
| 4. | ロシアによる支配 |
1807年にティルジットでナポレオン1世とむすんだ平和条約(ティルジット条約)にもとづいて、1年後にロシアのアレクサンドル1世はフィンランドを占領した。09年、ロシア帝国はフィンランドをロシアの公国とすることを宣言したが、旧来からあるフィンランド人の権利と特権はみとめられた。09年9月のハミナの講和で、スウェーデンはフィンランドとアハベナンマー諸島、カレリヤ地方を正式にロシアに割譲する。
これ以降、フィンランドはロシア人総督の支配下に入ったが、自治はゆるされ、新首都ヘルシンキにおかれたセナート(上院)は内閣としての機能をもっていた。ロシアの占領下で、フィンランドは物質的、文化的な発展をとげる。1820年以降人々の間に民族意識が高まってきたが、それはおもにフィンランド語の復活に争点がしぼられていた。09年から閉鎖されていた議会が63年に再開し、同年フィンランド語はスウェーデン語と同様の使用がみとめられた。
しかし、しだいにロシアの政策は転換しはじめ、19世紀末にはロシア化が強いられるようになった。1894年に一部の公務にロシア語が導入され、5年後にロシアは立法権を掌握し、数年後にフィンランド人は多くの権利をうばわれた。その後、日露戦争(1904~05)がはじまると、ロシア化政策は緩和される。1906年に一院制の議会がつくられて25歳以上の男女に参政権があたえられ、12年にはロシア人と同等の権利がフィンランド人に保障された。
| 5. | 独立、内戦 |
第1次世界大戦ではフィンランドは直接参戦しなかったが、ロシア軍が国内に駐屯した。1917年にロシア革命がおこると、フィンランド議会はこの機を利用して、12月6日に共和国として独立を宣言する。誕生したばかりのソビエト政府は、フィンランドの主権をみとめざるをえなかった。
新国家は飢饉(ききん)、高い失業率、不況といった問題に直面した。不安定な政情の中で、農民や資産階級からなる政府勢力と、小作農と労働者の革命勢力が対立、それぞれ白衛軍と赤衛軍を組織した。
両者の対立は激化し、ロシア軍追放という政府の政策に反発した赤衛軍が1918年1月28日に蜂起(ほうき)、内戦に発展した。政府はバーサに避難し、マンネルヘイム将軍が討伐軍を組織する。白衛軍をひきいたマンネルヘイムは、ドイツ軍の援助をえてヘルシンキを奪回し、革命勢力をうちやぶった。国家が平静をとりもどした19年7月、国会は新憲法を発布し、自由主義者のストールベリが初代大統領に就任した。
1920年代と30年代も、非社会主義政党による連立政権時代がつづいた。共産党は非合法化されたが、社会民主党は発展をとげる。32年にはソ連と不可侵条約をむすび、35年以降、北ヨーロッパの自由主義諸国寄りの外交政策がとられた。
| 6. | 冬戦争と継続戦争 |
1939年に第2次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)するとフィンランドは中立を表明したが、レニングラード(→ サンクトペテルブルク)への侵攻をおそれたソ連は、カレリヤと引き換えに国土の一部を割譲するよう要求してきた。フィンランドがこの要求をこばんだため、同年11月30日、ソ連軍は侵略を開始する。冬戦争とよばれるこの戦いで、マンネルヘイム将軍ひきいるフィンランド軍は善戦したが、大軍を擁するソ連軍を前にして、和平をむすばざるをえなかった。
1941年6月にドイツ軍がソ連を攻撃したとき、フィンランドはふたたび中立を表明したが、7万5000人のドイツ軍がフィンランド北方から軍事行動をおこした。フィンランドがドイツ軍に国土を利用させたことに対抗して、ソ連はフィンランドの都市を空爆し、結局フィンランドはソ連に宣戦布告する。これは、ドイツとは同盟関係になく、たんに共戦関係にすぎないことを強調したものだったが、同年12月にイギリスから宣戦布告され、アメリカ合衆国には国交を絶たれた。
このようないきづまった状態の中、1944年8月に大統領になったマンネルヘイム元帥は和平を模索し、同年9月19日に休戦条約に調印した。これにより、フィンランドはソ連に北部のペッツァモ地域を割譲し、フィンランド湾のポルッカラ半島を貸与したうえ、3億ドルの賠償金を課せられた。
→ ソ・フィン戦争
| 7. | 第2次世界大戦後 |
1947年にソ連との間に最終的な平和条約がむすばれた。賠償金は物品のかたちで52年までに全額しはらわれ、55年にポルッカラ半島が返還される。ソ連との新たな関係をきずくために、共産党を合法化し、48年には友好協力相互援助条約をむすんだ。なお、この条約は92年に廃棄されている。
| 7.A. | 外交 |
1990年代初期にソ連が東ヨーロッパにおける支配力をうしなうまで、フィンランドの基本的外交方針は、中立をまもりながら、独立した立場でソ連と友好関係を維持することにあった。この政策は、戦後の2人の大統領にちなんでパーシキビ・ケッコネン路線とよばれる。
ケッコネンは1950~56年まで首相を、56~81年まで大統領をつとめた。彼はソ連との摩擦をさけ、ソ連がいだいている非友好的なフィンランドというイメージをやわらげるようにつとめた。西側陣営はこうした外交関係を揶揄(やゆ)したが、フィンランドの態度はソ連との友好関係に配慮しながらも、実際は北ヨーロッパや西側諸国への接近を指向していた。ソ連崩壊後、フィンランドは旧ソ連諸国との経済、開発関係を再構築しはじめている。
| 7.B. | 内政 |
1917年の独立以来、小党分立(→ 多党制)がつづいており、連立内閣が政権交代をくりかえしてきた。戦後は、おもに社会民主党か中央党の党首が首相をつとめている。82年1月、25年間在任したケッコネンにかわって社会民主党のコイビストが大統領となった。83年の総選挙で社会民主党は議席をのばしたが、87年3月の総選挙では議席をへらし、保守の国民連合などとの連立内閣が成立した。このとき、国民連合のホルケリが首相になり、20年以上政権から遠ざかっていた保守政党が社会民主党とともに政権を担当することになった。88年2月の選挙でコイビストは大統領に再選されている。
1980年代の経済成長率は年4%で西側諸国で最高だったが、90年代初期には、負債にあえぐ旧ソ連諸国との貿易の減少により経済は停滞した。ホルケリの連立内閣は不人気となり、91年3月の選挙で中央党が第1党にかえりざいた。社会民主党は野党となり、中央党党首のアホが連立内閣を組閣した。92年3月にEC(ヨーロッパ共同体:現EU)に加盟を申請する。94年2月の選挙では社会民主党のアハティサーリが大統領に就任。同年秋におこなわれた国民投票でEU加盟が承認された。同年5月には、NATOに加盟するための第一歩として、「平和のためのパートナーシップ」協定の枠組み文書に調印した。
1995年1月1日、フィンランドはオーストリアやスウェーデンとともにEUに正式加盟した。3月の選挙で社会民主党が第1党になり、同党党首のリッポネンを首相とする連立内閣を、中央党など4党とともに発足させた。99年3月の選挙でも社会民主党は第1党の座をまもり、リッポネン首相のもとで5党による中道左派連立政権が継続されることになった。6月、アハティサーリ大統領はEU議長国首脳として米ロ代表と会談し、NATO軍のユーゴスラビア空爆の停止手順を協議するとともに、ユーゴスラビア連邦のミロシェビッチ大統領の同意をひきだして、コソボからのユーゴ軍の撤退とNATO軍による空爆停止を実現した。
2000年2月、大統領選挙の決選投票で社会民主党のタルヤ・ハロネン外相が当選し、フィンランド初の女性大統領となった。02年5月、議会は、国内5基目となる原子力発電所を新規に建設する政府案を承認した。原発の新設は約30年ぶりである。強く反対していた緑の党は連立政権から離脱した。脱原発の潮流に対立する選択の背景には、電力需要の増大と、石油依存型エネルギーの見直し、京都議定書によって現実的になった温室効果ガスの削減課題などがある。また、この前年の01年5月、議会は、使用済み核燃料を地下深くに半永久的に埋蔵する最終処分場の建設を決定している。
2003年3月の選挙では、中央党が社会民主党を僅差(きんさ)でおさえ、1995年からつづいたリッポネン政権はおわった。中央党党首アンネリ・ヤーテーンマキが初の女性首相となり、4月、中央党、社会民主党、スウェーデン人民党の連立政権が発足した。大統領、首相ともに女性がつとめる新体制が注目されたが、ヤーテーンマキは、選挙戦で「リッポネンはアメリカのイラク攻撃(→ イラク戦争)に協力的である」と攻撃するために外務省の機密文書を不正に入手した疑惑が浮上して、在任わずか2カ月で辞任した。新首相に前国防相のマッティ・バンハネン(中央党)が選出され、ヤーテーンマキ政権の方針を継承する新内閣が発足した。06年1月の大統領選挙は、現職のハロネンが僅差で再選をはたした。