フィンランド
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フィンランド
VIII. 歴史

フィンランドに人がすみついたのは今から9000年前で、原始的な狩猟民がおそらく東方から渡来し、居住した痕跡(こんせき)がのこる。今日の研究では、櫛目文土器(くしめもんどき)の時代、前3000年ごろには、フィン・ウゴル系の言葉(フィン・ウゴル語派)を話す人々がすでにフィンランドに到着していたと考えられている。前1800~前1600年ごろに南方からやってきたインド・ヨーロッパ語族の言語をもちいる人々が戦斧文化(せんぷぶんか。戦闘用の斧(おの)を副葬品とした)をもたらし、航海術と農耕技術をつたえた。戦斧文化と既存の文化が融合してキウカイネン文化が生まれた。鉄器時代は前500年ごろにはじまり、紀元前後からローマ文化との接触、鉄の冶金術の浸透によって部族国家形成への機運が高まっていった。

1. バイキング時代

バイキング時代には東西双方からの危険にさらされた。6世紀にはスウェーデンからきたバイキングがアハベナンマー諸島を植民地化し、海賊行為や東方貿易の基地として利用した。フィンランド人はスウェーデンやゴトランド島の商人と交流し、またこの地域にもうけられた交易所から種々の恩恵をうける。11世紀末にはフィンランド系住民の領域は北緯62度まで拡大し、南西部にフィン人、内陸部にタバスティア人、東部にカレリヤ人がすむようになった。北緯62度以北の荒れ地にはサーミ人が居住していた。このとき、フィンランドに統一された国家はまだ存在していなかった。

2. スウェーデンの征服

1050年から東方正教会とカトリック教会が布教をはじめたが、サーミ人をのぞくフィンランド人がキリスト教化されるのには2世紀以上を要している。

1155年、のちに教皇ハドリアヌス4世となるイギリス枢機卿(すうききょう)ブレックスペアの要請に応じて、スウェーデン王エーリク9世はバルト海をわたった。枢機卿の目的は、異教徒をキリスト教に改宗させることと、経済的・政治的裾野(すその)を広げることであった。エーリクはフィンランドを征服したものの、永続的に服従させることはできなかった。スウェーデンのウプサラの司教だったイギリス人ヘンリーはフィンランドにのこったが、1年後に殺害され、トゥルクの町およびフィン人の聖人となった。

1171年ないし72年の教皇勅書は、スウェーデンが恒久的な守備隊をもつ砦(とりで)を建設して、フィンランドを保護化においたことにふれている。やがてスウェーデンはフィン人とタバスティア人を征服するとともにキリスト教に改宗させ、外国貿易を支配した。1209年にトゥルクに司教区がおかれた際に教会が建設され、49年にはドミニコ会の修道院がたてられた。16年にローマ教皇はこの地方がスウェーデンの一部であることをみとめ、西と北における布教の拠点とした。

スウェーデンによる支配は、1238年と49年に十字軍を派遣したビルヤー伯によって確立される。彼は中央部のタバスティアに要塞(ようさい)をきずき、ロシア人の侵入にそなえた。92年に東方からロシアのノブゴロド公国(ノブゴロド)がタバスティアに侵入すると、スウェーデンはカレリヤ地方に援軍をおくったが、1323年の条約でスウェーデンとノブゴロド公国との間でカレリヤ地方を分割することとなる。

1362年、スウェーデン人と同等の権利がフィンランド人にあたえられた。その後、97年にデンマークのマルグレーテ1世がカルマル同盟を結成すると、フィンランドはスカンディナビア連合王国の統治下におかれた。15~16世紀には、フィンランドの大部分はスウェーデン人貴族の領土となり、人々は重税にくるしんだ。この時期にはスウェーデンの農民、漁民、商人がフィンランドへ移住している。

3. スウェーデン公国

カルマル同盟が崩壊したのち、スウェーデンのグスタブ1世は経済的、政治的な改革をおこない、1527年にカトリックと断絶し、数年後にルター派教会を承認した。この間、フィンランドの大部分はスウェーデン王の所領となる。イワン4世ひきいるロシア軍との戦い(1555~57)の間に、フィンランドにスウェーデン公国が建設され、のちのヨハン3世に封土としてあたえられた。70~95年の25年間、フィンランドはスウェーデンとロシアの戦争に常にまきこまれていた。

カール9世の治世(在位1599~1611)にフィンランドの全行政機関はストックホルムにうつされ、グスタブ2世の治世(在位1611~32)になると、デンマーク、ポーランド、ロシアとの長びく戦争にくるしめられた。グスタブ2世はロシアとの戦いで優位にたち、1617年のストルボバの和議によってスウェーデン公国フィンランドの領土は東方に拡大し、イングリアにまでおよんだ。

つづく三十年戦争(1618~48)では多くのフィンランド人兵士がスウェーデンのためにたたかい、民衆は重税にくるしんだ。1656~61年のロシアとの戦争で現在の状態まで領域が縮小し、戦火と95~97年の穀物の不作によりフィンランド人の約25%が死亡する。さらに、1700~21年の北方戦争ではスウェーデンをやぶったロシアに占領され、21年のニースタードの和議で東部の大部分をうしなった。その後もロシア軍の進攻はつづき、このころスウェーデンからの独立がさけばれはじめた。

4. ロシアによる支配

1807年にティルジットでナポレオン1世とむすんだ平和条約(ティルジット条約)にもとづいて、1年後にロシアのアレクサンドル1世はフィンランドを占領した。09年、ロシア帝国はフィンランドをロシアの公国とすることを宣言したが、旧来からあるフィンランド人の権利と特権はみとめられた。09年9月のハミナの講和で、スウェーデンはフィンランドとアハベナンマー諸島、カレリヤ地方を正式にロシアに割譲する。

これ以降、フィンランドはロシア人総督の支配下に入ったが、自治はゆるされ、新首都ヘルシンキにおかれたセナート(上院)は内閣としての機能をもっていた。ロシアの占領下で、フィンランドは物質的、文化的な発展をとげる。1820年以降人々の間に民族意識が高まってきたが、それはおもにフィンランド語の復活に争点がしぼられていた。09年から閉鎖されていた議会が63年に再開し、同年フィンランド語はスウェーデン語と同様の使用がみとめられた。

しかし、しだいにロシアの政策は転換しはじめ、19世紀末にはロシア化が強いられるようになった。1894年に一部の公務にロシア語が導入され、5年後にロシアは立法権を掌握し、数年後にフィンランド人は多くの権利をうばわれた。その後、日露戦争(1904~05)がはじまると、ロシア化政策は緩和される。1906年に一院制の議会がつくられて25歳以上の男女に参政権があたえられ、12年にはロシア人と同等の権利がフィンランド人に保障された。

5. 独立、内戦

第1次世界大戦ではフィンランドは直接参戦しなかったが、ロシア軍が国内に駐屯した。1917年にロシア革命がおこると、フィンランド議会はこの機を利用して、12月6日に共和国として独立を宣言する。誕生したばかりのソビエト政府は、フィンランドの主権をみとめざるをえなかった。

新国家は飢饉(ききん)、高い失業率、不況といった問題に直面した。不安定な政情の中で、農民や資産階級からなる政府勢力と、小作農と労働者の革命勢力が対立、それぞれ白衛軍と赤衛軍を組織した。

両者の対立は激化し、ロシア軍追放という政府の政策に反発した赤衛軍が1918年1月28日に蜂起(ほうき)、内戦に発展した。政府はバーサに避難し、マンネルヘイム将軍が討伐軍を組織する。白衛軍をひきいたマンネルヘイムは、ドイツ軍の援助をえてヘルシンキを奪回し、革命勢力をうちやぶった。国家が平静をとりもどした19年7月、国会は新憲法を発布し、自由主義者のストールベリが初代大統領に就任した。

1920年代と30年代も、非社会主義政党による連立政権時代がつづいた。共産党は非合法化されたが、社会民主党は発展をとげる。32年にはソ連と不可侵条約をむすび、35年以降、北ヨーロッパの自由主義諸国寄りの外交政策がとられた。

6. 冬戦争と継続戦争

1939年に第2次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)するとフィンランドは中立を表明したが、レニングラード(サンクトペテルブルク)への侵攻をおそれたソ連は、カレリヤと引き換えに国土の一部を割譲するよう要求してきた。フィンランドがこの要求をこばんだため、同年11月30日、ソ連軍は侵略を開始する。冬戦争とよばれるこの戦いで、マンネルヘイム将軍ひきいるフィンランド軍は善戦したが、大軍を擁するソ連軍を前にして、和平をむすばざるをえなかった。

1941年6月にドイツ軍がソ連を攻撃したとき、フィンランドはふたたび中立を表明したが、7万5000人のドイツ軍がフィンランド北方から軍事行動をおこした。フィンランドがドイツ軍に国土を利用させたことに対抗して、ソ連はフィンランドの都市を空爆し、結局フィンランドはソ連に宣戦布告する。これは、ドイツとは同盟関係になく、たんに共戦関係にすぎないことを強調したものだったが、同年12月にイギリスから宣戦布告され、アメリカ合衆国には国交を絶たれた。

このようないきづまった状態の中、1944年8月に大統領になったマンネルヘイム元帥は和平を模索し、同年9月19日に休戦条約に調印した。これにより、フィンランドはソ連に北部のペッツァモ地域を割譲し、フィンランド湾のポルッカラ半島を貸与したうえ、3億ドルの賠償金を課せられた。

ソ・フィン戦争

7. 第2次世界大戦後

1947年にソ連との間に最終的な平和条約がむすばれた。賠償金は物品のかたちで52年までに全額しはらわれ、55年にポルッカラ半島が返還される。ソ連との新たな関係をきずくために、共産党を合法化し、48年には友好協力相互援助条約をむすんだ。なお、この条約は92年に廃棄されている。

7.A. 外交

1990年代初期にソ連が東ヨーロッパにおける支配力をうしなうまで、フィンランドの基本的外交方針は、中立をまもりながら、独立した立場でソ連と友好関係を維持することにあった。この政策は、戦後の2人の大統領にちなんでパーシキビ・ケッコネン路線とよばれる。

ケッコネンは1950~56年まで首相を、56~81年まで大統領をつとめた。彼はソ連との摩擦をさけ、ソ連がいだいている非友好的なフィンランドというイメージをやわらげるようにつとめた。西側陣営はこうした外交関係を揶揄(やゆ)したが、フィンランドの態度はソ連との友好関係に配慮しながらも、実際は北ヨーロッパや西側諸国への接近を指向していた。ソ連崩壊後、フィンランドは旧ソ連諸国との経済、開発関係を再構築しはじめている。

7.B. 内政

1917年の独立以来、小党分立(多党制)がつづいており、連立内閣が政権交代をくりかえしてきた。戦後は、おもに社会民主党か中央党の党首が首相をつとめている。82年1月、25年間在任したケッコネンにかわって社会民主党のコイビストが大統領となった。83年の総選挙で社会民主党は議席をのばしたが、87年3月の総選挙では議席をへらし、保守の国民連合などとの連立内閣が成立した。このとき、国民連合のホルケリが首相になり、20年以上政権から遠ざかっていた保守政党が社会民主党とともに政権を担当することになった。88年2月の選挙でコイビストは大統領に再選されている。

1980年代の経済成長率は年4%で西側諸国で最高だったが、90年代初期には、負債にあえぐ旧ソ連諸国との貿易の減少により経済は停滞した。ホルケリの連立内閣は不人気となり、91年3月の選挙で中央党が第1党にかえりざいた。社会民主党は野党となり、中央党党首のアホが連立内閣を組閣した。92年3月にEC(ヨーロッパ共同体:現EU)に加盟を申請する。94年2月の選挙では社会民主党のアハティサーリが大統領に就任。同年秋におこなわれた国民投票でEU加盟が承認された。同年5月には、NATOに加盟するための第一歩として、「平和のためのパートナーシップ」協定の枠組み文書に調印した。

1995年1月1日、フィンランドはオーストリアやスウェーデンとともにEUに正式加盟した。3月の選挙で社会民主党が第1党になり、同党党首のリッポネンを首相とする連立内閣を、中央党など4党とともに発足させた。99年3月の選挙でも社会民主党は第1党の座をまもり、リッポネン首相のもとで5党による中道左派連立政権が継続されることになった。6月、アハティサーリ大統領はEU議長国首脳として米ロ代表と会談し、NATO軍のユーゴスラビア空爆の停止手順を協議するとともに、ユーゴスラビア連邦のミロシェビッチ大統領の同意をひきだして、コソボからのユーゴ軍の撤退とNATO軍による空爆停止を実現した。

2000年2月、大統領選挙の決選投票で社会民主党のタルヤ・ハロネン外相が当選し、フィンランド初の女性大統領となった。02年5月、議会は、国内5基目となる原子力発電所を新規に建設する政府案を承認した。原発の新設は約30年ぶりである。強く反対していた緑の党は連立政権から離脱した。脱原発の潮流に対立する選択の背景には、電力需要の増大と、石油依存型エネルギーの見直し、京都議定書によって現実的になった温室効果ガスの削減課題などがある。また、この前年の01年5月、議会は、使用済み核燃料を地下深くに半永久的に埋蔵する最終処分場の建設を決定している。

2003年3月の選挙では、中央党が社会民主党を僅差(きんさ)でおさえ、1995年からつづいたリッポネン政権はおわった。中央党党首アンネリ・ヤーテーンマキが初の女性首相となり、4月、中央党、社会民主党、スウェーデン人民党の連立政権が発足した。大統領、首相ともに女性がつとめる新体制が注目されたが、ヤーテーンマキは、選挙戦で「リッポネンはアメリカのイラク攻撃(イラク戦争)に協力的である」と攻撃するために外務省の機密文書を不正に入手した疑惑が浮上して、在任わずか2カ月で辞任した。新首相に前国防相のマッティ・バンハネン(中央党)が選出され、ヤーテーンマキ政権の方針を継承する新内閣が発足した。06年1月の大統領選挙は、現職のハロネンが僅差で再選をはたした。