イスラム教
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イスラム教
II. イスラムの教義

イスラムの教義と実践における2つの基本は、コーランおよびスンナ、すなわち預言者ムハンマドの慣行である。

1. コーラン

イスラム教徒にとっては、コーランは大天使ジブリール(ガブリエル)を通じてムハンマドにさずけられた神の言葉であり、したがってコーランの著者はムハンマドではなく神であり、コーランは誤りのない完全なものであると信じられている。コーランは、ムハンマドが預言者と自覚してからのおよそ22年間(610~632)に神からさずけられた啓示をあつめたもので、114章からなり、各章はもっとも短いものはわずか3節、もっとも長いものは306節からなる。イスラム教徒の研究者だけでなく非イスラム教徒の研究者も、コーランはその歴史を通じて完全にうけつがれてきたことをみとめている。

2. スンナ

イスラムの第2の基本はスンナである。それはハディースとして知られる、さまざまな問題に際しての預言者ムハンマドの言行に関する伝承である。コーランとはちがって、ハディースはムハンマドの教友たちの記憶を収集、記録したもので、かたりつたえられて9世紀にまとめられた。

コーランとちがって、ハディースは完全とはみなされない。初期には、預言者ムハンマド自身が完全であるか否かの論争もあったが、その後、ムハンマドや彼以前のすべての預言者は完全であるということでイスラム共同体の見解は一致した。しかし、ハディースは主として口頭でつたえられたものであるため、伝達の際に誤りが生じうると考えられた。このため、ハディースはコーランより下の第2の基本とされているが、大部分のイスラム教徒にとってほとんど根本的なものとなっている。

大部分のイスラム教徒にはまだうけいれられていないが、最近の研究では、ハディースの多くはムハンマドに由来するものではなく、むしろ、イスラム教徒の初期の世代の見解や、のちにムハンマドのものとされた見解をあらわしているものといわれる。ムハンマドの真の言葉がのこされている場合もあったが、のちに論理学的あるいは法学的な意見の発展をのぞんだイスラム教徒たちによって書き換えがおこなわれたりした。

3.

イスラム教の根本的な教えは、アッラーが唯一の神であるということを信じることである。したがって、複数の神々を信じることや神性がだれかにやどると信じることは断固として禁じられる。イスラム教の教えによれば、神は慈悲からあらゆるものを創造し、その創造したものにそれぞれ固有の性質をあたえ、法がそれを支配するようにした。その結果、すべてが神のもとに統一され、あらゆるものが一つの秩序の中に位置づけられた。この神の支配する自然の中には、もはやあらゆる混乱や破壊はみられず、そのことがまた神が存在し、神による統一がおこなわれていることの証(あかし)でもある、とされている。

4. 道徳規範

コーランは、人間を高慢で、卑小で、心のせまい、わがままなものであるとしている。「人間は生まれつき臆病である」とも、「人間は、わるいことがおこるとうろたえるが、よいことにであうとそれをひとり占めしようとする」ともいっている。そして、この卑小さは個々の人間が自然の中に埋没してしまい、創造主をみうしなってしまったためであるとしている。またコーランは、人間は愚かにも他人に対する慈善や献身によって自身が貧困におちいるのをおそれるが、それは彼が、神は貧者に対する寛大な行いの見返りに繁栄を約束していることを知らないからである、ともいっている。

そこでコーランは、人間は卑小さを超越し大きくなれと主張する。そうすることで、人間はタキーヤ(一般的には「神の恐れ」と訳されるが、本来は「危険から身をまもること」を意味する)という内面の道徳性を高められるとしている。この特性によって、人間は真偽を識別でき、ごまかしや危険からのがれて自身の行為を評価できるのである。人間はしばしば、重要な行為もやがては重要さをうしなってしまうと考えがちである。しかし、個人の行為の真の価値はタキーヤを通じてのみ判断できるのであり、個人のめざすものは人類の究極的な利益であるべきであり、個人的な喜びや野心であってはならないとコーランは説いている。

5. 預言者

イスラム教では、人類は道徳的に弱い存在であるため、神は個々の人間やあらゆる民族にただしい道徳と精神的な態度をおしえるために預言者をおくったとされている。多くの人間は、ときとして真偽の判断能力をうしなうため、預言者の導きが必要となるとされたのである。この導きは全世界的で、すべての人間がうけるべきものとされた。

コーランには、28人の預言者の名があげられている。その中では、旧約聖書に登場するアダムが最初の預言者とされている。ただし、彼はエデンの園から追放されたが、イスラム教では神にゆるされたとし、原罪の教義をみとめていない。つづいてノア、アブラハム、イサク、ロト、ヨセフ、モーセ、ダビデ、ソロモン、ザカリヤ、バプテスマのヨハネ、イエスなどの聖書中の人物やフード、サーリフ、シュアイブといった預言者が登場し、最後にムハンマドがおくられたとされている。

また、すべての預言者の啓示は同じ神から発せられたものであるとされ、コーランではそうした啓示のことを「守護された碑板」「純聖な書巻」「神の書の母」などとよび、たとえばモーセには律法(トーラー、モーセ五書)、ダビデには詩編、イエスには福音書、そしてムハンマドにはコーランがさずけられたとされている。したがって、すべての宗教は組織的にはことなっていても、基本的には一つと考えられている。すべての預言者は独立した存在ではなく、一つの総体であり、人はそのすべてを信じなければならない。というのは、ある預言者をみとめ、別の者をみとめないのは神性を否定するも同然だからである。あらゆる預言者は人間であり、神性を有してはいないが、人類のもっとも完璧な模範であると説かれている。

しかし、預言者の中でも、とくに試練にたえる力には優劣がある。コーランはムハンマドを「すべての預言者の封印」とよんでいる。つまり、イスラム教において、ムハンマドはこの世におくられた最後の預言者であり、コーランは最後のもっとも完成された神の啓示であるという立場をとるのである。

6. 審判の日

イスラム教では、創造からはじまる神の営みは審判でおわる。審判の日には、あらゆる人間がよびあつめられ、ひとりひとり生前の行為にしたがってさばかれる。神の手元にある帳簿にもとづく決算の結果、善行が黒字になった者は天国にいくことができ、赤字になった者は地獄におとされる。しかし、慈悲深い神は、赤字になった者でもゆるしに値する者はゆるすとされている。

最後の審判は個々の人間にかかわるものばかりではなく、歴史の中で民族や人間集団もそれをうけなければならない。民族もまた、個々の人間と同様に、富、権力、プライドに幻惑されるが、そのことに気づかないと、こうした民族はより徳の高い民族によってほろぼされるか征服されることになるとされる。