| EU(ヨーロッパ連合) | 項目ビュー | ||||
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| III. | 歴史 |
第2次世界大戦はヨーロッパ経済を荒廃させた。その中で一部の人々は、西ヨーロッパの復興が統一ヨーロッパへの合意につながることを期待した。だがヨーロッパ統合の理想は冷戦の幕開けと、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)への根強い不信感によってはばまれた。
フランスの外相シューマンと文官ジャン・モネは、強力に経済的な動機付けをすれば、伝統的な独仏の敵対関係も棚上げになるだろうと考えた。1950年5月シューマンは、西ドイツとフランスの戦略的な産業である石炭や鉄鋼を管理する共同機構を設立し、ヨーロッパのほかの国々にも加盟の道を開いてはどうかと提案した。
この提案は西ドイツ、ベルギー、イタリア、ルクセンブルク、オランダに歓迎された。1951年この5カ国とフランスはパリ条約に調印し、52年7月にECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)が設立された。ECSCの超国家的な性質に反発したイギリスは参加しなかった。
1955年6月、ECSC加盟6カ国の外相は経済統合の拡大の可能性を検討することに合意した。その結果、57年3月ローマで2つの条約が締結され(ローマ条約。1958年1月発効)、すべての分野での経済統合をめざすヨーロッパ経済共同体(EEC)と原子力の共同開発と共同管理のためのEURATOM(ユーラトム:ヨーロッパ原子力共同体)が設立された。
| 1. | ヨーロッパ経済共同体(EEC) |
経済の分野でEEC条約は12年以上の間、域内の貿易障壁撤廃や域外諸国からの輸入品に対する共通関税の設定、そして農業を管理、援助する共通農業政策(CAP)を指導した。経済統合がすすむにつれてEECは超国家的な存在となっていったが、政治の分野では、EEC条約は各加盟国政府に対してECSC条約より大きな役割をあたえた。
EECに対抗して、イギリスをはじめとする非EEC7カ国が1960年にEFTA(エフタ:ヨーロッパ自由貿易連合)を設立した。EEC経済の成功が明らかになると、61年にイギリスはEEC加盟にむけての交渉を開始した。しかし、アメリカと距離をおく自立政策をすすめていたフランス大統領ド・ゴールは米英の密接なつながりを理由にイギリスのEEC加盟を拒否した。ド・ゴールは67年にもふたたびイギリスのEEC加盟をしりぞけた。
| 2. | ヨーロッパ共同体(EC)の発足と拡大 |
1967年7月1日、ヨーロッパ経済共同体(EEC)、ECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)、EURATOM(ヨーロッパ原子力共同体)の執行機関を統合して単一の理事会と委員会を創設する条約(1965年調印)が発効し、3共同体をまとめたヨーロッパ共同体(EC)が発足した。翌68年には、工業製品に対する域内関税の撤廃を実現してEC関税同盟を完成し、共通農業政策(CAP)により農産物の価格を統一して農業共同市場を形成した。
1969年4月、ド・ゴールにかわってフランス大統領に就任したポンピドゥーは、EC内でのイニシアティブ獲得に積極的な態度をしめした。同年12月、ポンピドゥーの提案によりオランダのハーグでEC加盟国首脳会議が開催され、ECの財源に関する協定や、加盟国による対外政策協力の枠組み、イギリス、アイルランド、デンマーク、ノルウェーの加盟にむけての地盤づくりがなされた。
ほぼ2年にもおよぶ交渉の末1972年に加盟条約が調印され、73年1月1日、イギリス、アイルランド、デンマークがECに加盟した。ノルウェーは、条約調印後の国民投票でEC入りが否決された。
イギリスではEC加盟後も、加盟に反対する声があった。1974年に労働党が政権に復帰し、選挙公約であったEC加盟条件(とくに経済面)の再交渉を実施した。結果はわずかな変更にとどまったが、この間、ECは混迷の時期をすごした。内部で意見が対立したイギリス労働党政府はEC加盟の継続を承認する一方で、75年に国民投票をおこなった。一部の強い反対にもかかわらず、イギリス国民はEC加盟の継続を支持した。
1979~80年にイギリス政府は、自国のECへの貢献はその恩恵をはるかにこえるとして、ふたたび加盟条件の変更をはかった。80年春に一部の加盟国がEC経費の分担増大に同意したことで、この争いはようやく決着した。84年ECは、イギリスがECへの実質貢献分の一部を割り戻しとしてうけることに同意し、その年の割り戻しを8億ドルとした。
ギリシャは8年間の交渉ののち1981年にEC加盟、86年にはスペイン、ポルトガルが加盟して、ECは12カ国に拡大した。ほかに70~80年代の重要な発展としては、EC域内後進地域援助の拡大(とくに加盟諸国の旧植民地向け)、加盟国間の通貨取引を安定化させる目的のヨーロッパ通貨制度(EMS)の設立、域内の貿易障壁の撤廃と単一市場の確立へむけての進展などがある。
| 3. | ヨーロッパ通貨制度 |
ヨーロッパ通貨制度(EMS)は、1979年3月に経済通貨同盟(EMU)実現への第一歩として発足した。ヨーロッパ通貨制度は、各国通貨の交換比率に中心レートをさだめ、変動幅を一定の範囲にとどめる目的で提案された。その中心レートをきめるものとしてヨーロッパ通貨単位(ECU:エキュ)が導入された。ECUはEC各国の通貨からなり、構成比率は各国の経済力によって決定された。
ヨーロッパ通貨制度では各国通貨が上下2.25%とさだめられた変動幅をこえた場合、その国の中央銀行による市場への介入が義務づけられた。またヨーロッパ通貨制度は参加国が適切な段階をふんだ経済政策によって、為替相場の変動をさけることをさだめた。ヨーロッパ通貨制度はEC(ヨーロッパ共同体)域内のインフレ率の低下をたすけ、1980年代の世界的な為替変動のショックをやわらげた。
| 4. | 単一市場へむけて |
1980年代のヨーロッパ共同体(EC)のもっとも重要な発展は、単一市場の実現へむけての進歩である。単一市場計画は、85~95年にEC(EU)委員長をつとめたフランスのドロールによってすすめられた。85年6月、イタリアのミラノでのヨーロッパ理事会(EC首脳会議)の席上、EC委員会は加盟国間に残存する貿易障壁をほぼ全面的に撤廃する7カ年計画を提案した。首脳会議はこれを承認して92年12月31日を目標にヨーロッパ単一市場を達成することとし、EC改革に拍車をかけ、加盟国間の相互協力と統合をすすめた。
完全な経済統合への障害のひとつは共通農業政策(CAP)だった。共通農業政策は、域内農民の所得の保障や生産・流通機構の改善、農民の労働条件の向上を目的とするものであるが、1980年代を通じて共通農業政策への財政負担は年間のEC歳出の3分の2を占めていた(歳入は域外産品への輸入課徴金と加盟国が徴収する2%以下の付加価値税からなる)。
共通農業政策は一部の農産物の過剰生産を生み、過剰分の買い取りを義務づけられたECは、一部の加盟国の犠牲のもとで助成金を捻出(ねんしゅつ)せねばならなかった。そこで1988年の緊急首脳会議において助成金の制限が合意された。89年度予算では60年代以降ではじめて、農業助成金がECの全支出の60%以下におさえられた。
| 5. | 単一ヨーロッパ議定書 |
単一市場達成の計画にしたがい、最終期限までに貿易障壁撤廃にかかわる全問題を解決するには、EC(ヨーロッパ共同体)がもっと大きな力を必要としていることは明らかだった。
1987年7月に発効した単一ヨーロッパ議定書は、域内市場を「物、人、サービス、資本の自由な移動が保障された国境のない領域」と規定し、その完成を92年末に設定するとともに、57年のローマ条約以来はじめてEC機構に大改革をもたらした。なかでも、これまで全会一致制をとっていた理事会の議決の一部に特定多数決制を導入したことは、意思決定を迅速化し、単一市場へのプロセスの短縮につながった。
単一ヨーロッパ議定書はこのほかにも重要な改革をおこなった。単一市場への起動力となってきたヨーロッパ理事会は正式な地位をあたえられた。ヨーロッパ議会の影響力が拡大され、共通の政策・水準の適用の幅は税金や雇用・健康問題にまで広げられた。また個人および機関や企業がECの決定に対する抗議をもちこむ第1審裁判所がヨーロッパ裁判所にもうけられ、さらに各国は経済・通貨政策に関して、ヨーロッパ通貨制度(EMS)をモデルとしてほかの加盟国と協調することとなった。
| 6. | ヨーロッパの変化とEC |
通貨統合の支持者たちは、資金移転の各種規制や為替手数料が資本の自由な流れをさまたげているかぎり単一市場はありえないと考え、経済通貨同盟を達成するための3段階計画が提案された。同時にEC委員会は人権にかかわる社会憲章を提案した。
イギリスは、ヨーロッパ共同体(EC)の権力拡大は個々の国家の主権をおびやかすものだと主張して、この2つの提案に反対をとなえた。しかし結局イギリスは、ヨーロッパ全体がECの統合された迅速な対応を必要とする状況から、当初みおくっていたヨーロッパ為替相場メカニズム(ERM)への参加を決意した。
東ヨーロッパで社会主義が崩壊すると、かつての社会主義国の多くがECに政治的・経済的援助を期待するようになった。そうした国々に対しECは軍事援助や準加盟協定には合意したが、正式加盟はみとめなかった。1990年4月の緊急首脳会議で加盟がみとめられた東ドイツは唯一の例外で、東西ドイツ統合によって自動的にECの一員となった。
またこのときの会議では、急激な政治の変化の結果として、西ドイツとフランスがより緊密なヨーロッパの統合を追求する政府間協議(IGC)を提案した。これにより、通貨統合と政治協力の両分野で政府間協議がすすめられ、ヨーロッパ連合条約案が作成された。