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公民権運動
I. プロローグ

教育、選挙、雇用などで完全な公民権を獲得し人種平等を達成するために、アメリカのアフリカ系住民らがおこなった政治的、法的、社会的運動(社会運動)。黒人解放運動、黒人革命ともよばれ、南部再建につぐ第2次再建ともいわれる。1860年代に黒人奴隷制(奴隷制)は廃止されたが、白人の黒人への差別意識は根強く、その後は公然と人種隔離政策がおこなわれた。公民権運動はこれを徹底的に破壊する運動だった。

公民権運動家や一般参加者は、抗議行進から隔離立法への直接行動による反対まで、多様な方法で人種隔離制度と人種差別に挑戦した。公民権運動は、1955年のモンゴメリー市バス・ボイコット闘争にはじまり、68年のキング牧師の死や65年の投票権法成立でおわるとされることが多いが、異論も多い。

II. 人種隔離制度のはじまり

人種隔離制度とは、生活の全領域で両人種を分離することによって奴隷制廃止後の社会秩序を確立し、黒人への優越をまもろうとする南部白人の試みをさす。1820年代に成立したミンストレル・ショーに登場するステレオタイプ化された愚鈍な黒人奴隷にちなんでジム・クロー制度ともよばれ、南北戦争(1861~65)につづく再建期が77年に終了した後、南部諸州に広がった。

再建期に黒人、北部人、一部の南部人が南部諸州で運営した共和党政府が、一連の黒人解放立法を制定した。しかし、1877年までに民主党が南部諸州の支配権を奪回、クー・クラックス・クラン(KKK)によるテロや暴力を背景に人種隔離にのりだした。その後、80年以上にわたり、学校、交通機関、食堂、公園などあらゆる施設での人種隔離が州法や地方自治体条例によって強制された。

人種隔離制度は政治分野にもおよび、憲法修正第15条(1870年発効)で保障された黒人選挙権の剥奪(はくだつ)が進行した。1890~1910年、南部諸州では財産査定額、納税額、識字テストの結果などを理由に黒人の投票権が大幅に制限された。政治参加の制限と公然たるリンチや暴力により、黒人は南部社会での劣等的地位を強いられた。

1910年まで北部にすむ黒人は黒人総人口の1割にすぎず、第2次世界大戦(1939~45)前は西部にすむ黒人もわずかだった。北部では黒人投票権はおおむねみとめられ、人種隔離制度も一般化していなかったが、就業上の差別や人種偏見はきびしく、新移民との競争ではたいていやぶれた。

III. 人種隔離制度への黒人の抵抗

19世紀末に黒人は交通機関での人種隔離、州による投票権剥奪、学校や食堂での人種隔離と差別に反対する訴訟をおこした。しかし1896年、連邦最高裁は鉄道施設での人種隔離をさだめたルイジアナ州法をめぐるプレッシー対ファーガソン事件判決で「分離しても平等」の見解をしめし、99年にはこの原理を学校にも適用、これにより南部白人の間では分離しても合憲という認識と制度的差別体系の整備がすすんだ。

1. 20世紀初め

黒人は全国組織の結成により人種隔離制度に抵抗した。歴史家で社会学者のデュ・ボイスに指導され、1905年に開始されたナイアガラ運動の後、09年には20世紀でもっとも重要な黒人抵抗組織、全米黒人地位向上協会(NAACP)が結成された。法廷闘争と啓蒙活動を中心に人種隔離制度に抵抗したNAACPは、投票権剥奪と居住隔離をめぐる訴訟でそれぞれ15年と17年に勝利をおさめた。また11年には、黒人の産業社会、都市社会への適応を促進するために全国都市連盟(NUL)が発足した。

2. 第1次世界大戦期と大恐慌期

第1次世界大戦(1914~18)では多くの黒人が軍隊に入隊し戦闘に参加したが、軍隊内の人種隔離のもとで差別にくるしんだ。戦時中、白人の多くが兵役についたため労働力需要が高まり40万人以上の黒人が南部農村から北部や西部の都市へ移住した。南部黒人の移住は1950年代にはいるまでつづいた。

1890年には南部黒人の85%が農村に居住していたが、1960年までにこの割合は42%に低下した。60年、北部では黒人の95%が都市域に居住することになる。移住と都市化により北部では黒人コミュニティが形成され、強力な政治力を行使することで、人種隔離制度に対する南部黒人の闘いを援助した。

1930年代の大恐慌(恐慌)期、北部諸都市では人種差別への黒人の抵抗が高まった。「はたらけない場所では買い物をするな」をスローガンに黒人を雇用しない白人商店に対する不買運動をおこし、黒人児童への差別的扱いを理由に学校へのボイコットも組織された。

大恐慌期に黒人は失業率がきわめて高く雇用面でもいちじるしい差別にあったが、フランクリン・ルーズベルト大統領によるニューディール政策の恩恵をうけた。1936年の大統領選挙を契機に黒人票が民主党にながれこみ、黒人はルーズベルト政権をささえる重要な基盤となった。

反リンチ法案の不成立がしめすように、南部議員を中心とする議会の人種差別的姿勢は根強かったが、連邦政府と連邦最高裁は黒人寄りの姿勢を強めた。ちなみに、黒人に被害者の多かったリンチに対して、連邦法で歯止めをかけようとする反リンチ法は1968年まで成立させることができなかった。

3. 第2次世界大戦期

1939年に第2次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、第1次世界大戦の差別経験から黒人は軍隊や軍需産業でのより公平な処遇をもとめた。第2次世界大戦で徴兵された黒人は70万人に達したが、白人とは別部隊に編成された。人種隔離のもとで戦闘では白人と同じ軍務をになったのだった。

1941年春から夏、中心的な黒人労働運動指導者フィリップ・ランドルフらが、連邦政府に黒人の雇用差別禁止をもとめるため、黒人によるワシントン行進をよびかけた。この行進は実現しなかったが、ルーズベルト政権は政府と軍需契約をむすぶ企業が雇用面で人種差別をおこなうことを監視する公正雇用実施委員会(FEPC)の設置を約束した。FEPCは軍需産業における人種差別を完全には払拭(ふっしょく)できなかったが、決然たる抗議の姿勢が連邦政府をうごかすという教訓を黒人にあたえた。

投票権や教育の平等をめぐる黒人の闘いは大戦中もつづいた。NAACPの会員数は50万人に達し、1942年には北部の公共施設での人種隔離を改善するために、人種平等会議(CORE)が結成された。

第2次世界大戦中、黒人諸新聞はヨーロッパのファシズムと国内の人種差別との双方に対する勝利をとなえた。大戦に従軍した黒人兵士は、人種隔離の軍隊に編成されながらも、ヨーロッパやアジアでファシズム打倒の戦いに参加して差別批判の自覚と自信を深めた。また、黒人兵士の愛国主義的で勇敢な活躍が国内の白人の間に黒人公民権無視の現実を疑問視させる契機ともなった。

さらに、反ファシズム戦争の指導者を自覚するアメリカが、国内に人種差別を温存しているという矛盾を批判する国際世論の高まりもみられた。1882年に立法化されていた中国系移民排斥法が中国政府の非難をうけ、連邦議会が1943年に同法を撤廃し、48年には人種差別の禁止もうたう世界人権宣言が、アメリカも生みの親のひとりである国際連合で採択された。

こうした内外の変化を背景に、トルーマン大統領は公民権(市民権)に関する大統領委員会を設置、1948年には議会に特別教書をおくって公民権の保護をうったえた。議会は教書に対して具体的な行動はおこさなかったが、同年にトルーマン大統領は連邦政府職員の雇用での人種差別禁止や、軍隊での人種統合をすすめる行政命令を発し、50年には連邦最高裁が複数の州で営業している州際鉄道の食堂車での人種差別を禁じる判決をくだした。しかし、南部白人の差別感情や南部の人種隔離制度崩壊の兆しは容易にはあらわれなかった。

4. 人種統合教育とブラウン事件判決

第2次世界大戦後、NAACPは法廷闘争による完全な公民権獲得の闘いを継続し、1950年に連邦最高裁はスウェット対ペインター事件判決で州立のテキサス大学はそのロー・スクールで人種統合教育をおこなうべしとの判断をしめした。さらに54年、NAACPは白人公立小学校への入学を拒否されたカンザス州の黒人少女の親を援助してブラウン対トピーカ市教育委員会訴訟をおこした。

従来、裁判所では1896年のプレッシー対ファーガソン事件での「分離しても平等」という連邦最高裁判決を根拠に人種分離教育が正当化されていた。しかし、このブラウン対トピーカ市教育委員会事件判決(いわゆるブラウン事件判決)で連邦最高裁は、人種別学が黒人児童に劣等感をうえつけることで児童の発達を阻害するという理由から、公教育における人種隔離は教育の機会均等をさまたげているとして違憲とする画期的判決をくだした。

ブラウン事件判決に対して、南部白人社会では強烈な反発がまきおこった。1956年には南部選出の連邦議会議員の8割近くにより、判決を無効とする南部宣言が発せられ、人種隔離制度の維持をとなえる人々により白人市民会議が結成された。南部各州の議会は人種統合教育をさまたげる州法を続々と成立させ、クー・クラックス・クランの活動も再燃、ブラウン事件判決を支持する黒人の解職や白人だけの私立学校設立の動きも広がった。

ブラウン事件判決直後には、人種統合を推進する学校は南部にあらわれなかった。バージニア州のある郡では公立学校がすべて閉鎖された。1956年にはアラバマ州立大学に合格した黒人女性が強制退学させられ、57年にはアーカンソー州リトルロックで9人の黒人生徒が公立高校へ入学するのに州知事が陣頭にたって反対、白人市民による暴動が生じた。アイゼンハワー大統領は連邦軍を派遣して暴動を鎮圧、軍隊を駐留させて黒人生徒の安全をはかった。こうした模様はメディアをとおして全米にながれ、人種隔離教育のはらむ問題の根深さを国民に知らせた。

IV. 公民権運動の広がりと成果
1. モンゴメリー市バス・ボイコット事件

一方、完全な公民権をもとめる黒人の闘いは、ブラウン事件判決を機に学校での人種統合教育をこえて他の場所での人種隔離への挑戦へと急速に拡大した。

1955年12月、NAACPのアラバマ州モンゴメリー支部に属する黒人女性裁縫工ローザ・パークスが、市バス内で白人に席をゆずれという運転手の命令をこばんだため州法違反で逮捕された。パークス逮捕の知らせはモンゴメリー市の黒人社会にただちに広がった。以前から人種差別的な市バスに憤慨していた黒人たちは、一夜にして組織化され、バス・ボイコットを決定した。このボイコットは1年以上つづき、市内在住の5万人の黒人と良心的な白人が参加した。

ボイコット運動をささえた中心人物が、26歳のわかきバプティスト派の牧師キングだった。南部で生まれ北部の大学でまなんだキングは、ガンディーの非暴力抵抗思想に強い影響をうけ、ボイコット運動を人間正義の闘いととらえて、整然とした抗議行動によって車内の人種隔離廃止をめざした。市当局と白人社会は逮捕や暴力により運動を阻止しようとしたが、1956年11月、連邦最高裁が公共バス内での人種隔離を違憲とする判決をくだし、運動は勝利をおさめた。キングは一躍、公民権運動の指導者として脚光をあび、57年に南部キリスト教指導者会議(SCLC)を設立、精力的に運動を展開していく。

同年にはアイゼンハワー政権が公民権(市民権)法を成立させた。これは公民権委員会によって黒人の選挙権行使への妨害を防止しようというもので、人種隔離制度を解体させるような法律ではなかったが、市民権法(1866)や憲法修正第14条(1868発効)など南部再建期に黒人に保障された市民権の実態がともなわない情況の中で、20世紀になってはじめて成立した公民権法として象徴的な意味をもつものだった。

2. 座り込み(シット・イン)運動

1960年2月初め、ノースカロライナ州グリーンズボロの白人専用ランチ・カウンターに4人のNAACPの黒人大学生がすわり、コーヒーを注文した。人種隔離制度のもとで注文は無視されたが、4人は座り込み(シット・イン)をつづけた。脅しにもかかわらず、この座り込みにくわわる黒人はふえ、マスコミ報道がなされると、人種隔離制度に抗議する座り込みや眠り込み(スリープ・イン)といった同様の行動が南部じゅうの食堂やモーテル、図書館、劇場などに広がった。こうした運動の参加者は南部の諸都市で数万人におよんだ。ブラウン事件判決にもかかわらず厳然と存続する南部の人種隔離制度に、非暴力直接行動で黒人学生がたちあがったのだった。

1960年4月にノースカロライナ州ローリーで、学生の座り込みを組織・指導するために学生非暴力調整委員会(SNCC)が、エラ・ベーカーの強い影響をうけて結成された。SCLCとNAACPで活動してきたベーカーは、SNCCが国の立法改善をめざすSCLCから独立した学生組織として、SCLCとちがった路線をとり、個々の黒人コミュニティを基盤に公民権運動を推進する必要性を説いた。やがて公民権運動の高揚の中で、SCLCとSNCCは緊張を深めていくことになる。

3. 自由のための乗客(フリーダム・ライダーズ)運動

翌1961年5月、座り込み運動の後にSNCCのメンバーの一部は、COREが組織した自由のための乗客運動に参加した。この運動は黒人と白人十数人のメンバーが、複数の州にまたがる長距離交通機関の人種隔離を違憲とした前年の連邦最高裁判決の効力をためすため、人種隔離制度の本拠地である南部諸州に長距離バスでのりこむものだった。バスが人種差別のはげしいアラバマ州にはいると白人群衆がバスを襲撃、バーミングハムやモンゴメリーで負傷者が次々とでた。

暴力事件により、自由のための乗客運動とアラバマ州当局の人種差別容認の姿勢に世論の非難があつまった。ケネディ政権は南部民主党の離反を懸念して積極介入をさけ、州際交通での人種隔離の禁止命令をだしたものの強制措置はとらなかった。ミシシッピ州ジャクソンで、メンバーたちが州当局に逮捕されて運動はおわった。この運動は、公民権運動家たちが目標を達成する道程のけわしさをアメリカ社会にみせつけた。

4. SCLCの運動

1961年、SCLCがジョージア州オルバニーで、公共施設の人種隔離に反対して初の直接行動による抗議運動を組織した。キングの存在で世論が注目し、参加者がましたために運動は盛りあがったが、市当局は警察力を動員し、運動は失敗した。

1963年4~5月には、南部各地で人種隔離に反発する運動が頻発した。州知事と警察署長の苛烈な人種差別で知られるアラバマ州バーミングハムでは、4月初めにキングとSCLCが公共施設の人種隔離と雇用差別に反対するデモ行進をおこなった。テロ防止のためにケネディ大統領は連邦軍を派遣。整然たる行進がおこなわれたが、警察は警察犬をけしかけて高圧放水を容赦なくあびせかけ、逮捕者が数多くでた。しかし、その模様は逐一報道され、黒人公民権運動家への同情を高めた。その後、運動は各地に広がり、6月になってケネディ大統領は公民権法案の上程を決定した。

5. 南部の大学と人種統合

1962年、黒人学生メレディスはミシシッピ州立大学への入学を希望して拒否されたため、入学をもとめる訴訟をおこした。連邦裁判所はこれをみとめたが、州知事が裁判所命令を拒絶、ケネディ政権は連邦執行官をおくって入学をみとめさせた。入学第一夜、激怒した白人群衆の暴動が発生、連邦軍によって鎮圧されたが2名の死者と400名近い負傷者がでた。

1963年、アラバマ州立大学でも同様の入学希望者がでて、州知事が入学阻止の姿勢をみせた。ケネディ政権は、暴力封じ込めと黒人学生の入学のため連邦軍を派遣した。これら2つの事件は、黒人公民権の支持にそれまではおよび腰だったケネディ大統領を人種隔離制度の撤廃に決然とむかわせることになった。

6. 歴史的なワシントン大行進

公民権運動に従事する多様な団体は、ケネディ政権での公民権法の成立を確実なものとするため、1963年の夏に「職と自由のためのワシントン大行進」を計画した。これはフィリップ・ランドルフが41年に計画した行進の復活でもあった。8月28日にワシントン大行進はおこなわれ、NAACP、CORE、SCLC、SNCCなどの公民権運動諸団体代表、100名近い連邦議会議員、労働組合や宗教団体代表をふくむ、人種を問わない20万人以上もの大群衆があつまった。キングは有名な「私には夢がある」演説をおこない、非暴力的手段で人種統合を実現することをうったえた。

7. 包括的な公民権法の成立

ケネディ大統領は6月に公民権法案を議会に提出していたが、1963年11月に暗殺された。政権をひきついだジョンソン大統領はケネディ追悼を旗印に法案通過を強力にはたらきかけ、南部選出議員の強い反対をおしきって64年7月に公民権法は成立した。この法律は公共施設での人種隔離と投票、教育、雇用における人種差別の禁止をさだめており、これは57年、60年の公民権法の不備をおぎなう包括的なもので、南部再建期以来の画期的な公民権法だった。また、「法の前の平等」だけでなく、強力な行政介入によって実質的な平等を実現すること(結果の平等)をめざすものだった。

8. 投票権法の成立

公民権法の成立にもかかわらず、とくに深南部の都市や農村地域では黒人の有権者(投票権)登録が白人当局やクー・クラックス・クランの暴力的妨害ですすまなかった。SNCCは南部の人種差別的政治の改革には黒人の有権者登録が必須との立場から、識字など登録テストの訓練をはじめとする啓蒙活動を展開した。アラバマやミシシッピでは、1961年からボブ・モーゼスらSNCC活動家が運動をおこなっていたが、あいつぐテロになやまされ、63年には死者もでていた。

SNCCは、1964年夏にミシシッピ州で黒人有権者登録の推進をすすめるために「ミシシッピ夏期計画」を実施した。この活動には、黒人だけでなく北部からも700人以上の白人学生が参加したが、テロや暴力が間断なくくわえられ、黒人と白人あわせて6人が殺された。しかし、妨害にもかかわらず約1000人の黒人が有権者登録をはたした。

「ミシシッピ夏期計画」は政治に目をむける黒人の数をふやし、人種差別的な民主党州組織に対抗して、1964年春に設立されていたミシシッピ自由民主党(MFDP)の力をのばした。MFDPは、8月の民主党全国大会に70人近い代議員を選出したが、MFDPが有権者登録への白人の妨害を非難し、それがマスコミに大きくとりあげられたため、党大会の混乱をおそれた民主党指導部は代議員としてみとめなかった。これによりSNCCの青年活動家の間には民主党リベラル派への不信感が生まれ、のち「ブラック・パワー」を提唱するストークリー・カーマイケルら急進派の分派をまねく遠因になったといわれる。

1965年3月、アラバマ州セルマで、SCLCはSNCCが主導する投票権要求闘争に直接行動を導入した。前年にノーベル平和賞を受賞したキングらがよびかけて、セルマから州都モンゴメリーまでの5日間、80kmにおよぶ2万人以上がおこなったセルマ大行進は「自由の行進」とよばれ、州当局のさまざまな妨害を排して成功した。行進の模様は、マスコミによって報道され、投票権をもとめる公民権運動家の勇気ある姿と強力な立法措置の必要性を国民に印象づけた。

行進ののち、ジョンソン大統領は黒人投票権を連邦が保護する投票権法案を議会に提案、同年8月に投票権法が成立した。これによりミシシッピ州では黒人の有権者登録率が1968年に6割近くに達するなど、黒人有権者は南部政治に重要な影響をおよぼすようになった。

9. ブラック・パワー

1965年の投票権法の成立後、公民権運動の目標は変化しはじめた。公民権運動の青年指導者たちは、「法の前の平等」にもとづく人種統合要求や道徳的理想主義というキングの訴えを批判し、人種差別への姿勢が弱腰だとキングら既成指導部を非難した。

1964年7月のニューヨークのハーレム暴動を皮切りに、68年夏までにニューヨーク、ロチェスター、ロサンゼルスなど北部の都市をふくむ全米諸都市で「長く暑い夏」とよばれる黒人都市暴動が夏季に頻発した。キングの公民権運動は南部の人種隔離制度を攻撃目標としたが、60年代初めには黒人の半数近くは北部のスラム街にすむようになっていた。北部では人種隔離制度はほとんどなかったが人種差別は厳然としてあり、北部黒人が公民権運動の成果の恩恵にみすてられたまま、失業や住宅難による極貧の中にいたことが都市暴動を誘発した。

SNCCのカーマイケルは、キング批判の急先鋒であり、1966年に黒人運動の自立と自衛をうったえてブラック・パワーをとなえた。ブラック・パワーの主張者たちは、攻撃的なスピーチと活動で黒人の自意識、自尊心、自立をうったえて65年に暗殺されたブラック・ムスリムのマルコムXから強い刺激をうけていた。

マスコミは急進的黒人分離主義を根拠にブラック・パワーを公民権運動の危険な異端としてえがき、公民権運動諸団体や白人社会の非難をあおり、国民の間に定着しつつあった公民権運動をめぐる意見の一致を妨害した。

SNCCから白人を排除し、急進的傾向を強めたカーマイケルら若手指導者たちは、白人社会からは暴力と人種分裂の扇動者という烙印(らくいん)をおされた。また1966年に黒人の自由と権利の獲得や、黒人コミュニティの自主管理をかかげるブラック・パンサー党がカリフォルニア州オークランドで結成され、のち暴力を目的達成手段としてみとめて影響を拡大すると、警察は徹底弾圧の姿勢でのぞみ、指導者の一部は殺害され、多くが収監された。

1965年以降、都市暴動やベトナム戦争の深刻化の中で、キングは反貧困とベトナム反戦をむすびつけ、北部の人種不平等を攻撃する急進化傾向をしだいに強めた。67年、キングは黒人の貧困・暴力問題に国政の関心をあつめるため、第2のワシントン大行進をふくむ「貧者の運動」を計画。68年4月、黒人労働者のストライキ支援のためにおとずれたテネシー州メンフィスで志半ばにして暗殺された。

彼の死後に実施されたワシントン行進は、政府の冷淡な対応もあって成功しなかった。南部の人種隔離制度とちがって、北部都市の人種問題は特定の法律をかえれば成果がみえるという性格のものではなかったといえる。

V. 公民権運動の終結

多くの活動家や研究者にとり、公民権運動は1968年のキングの死をもっておわったといえる。しかし、65年のセルマ大行進以後は運動に決定的転換はなかったことを理由に、セルマ大行進とそれにつづく投票権法成立を終結点と主張する者もいる。また、一部の黒人の間には、完全な人種平等という目標が達成されていない以上、公民権運動はまだおわっていないと主張する者もいる。

1968年以降もアメリカの人種問題は生きつづけた。都市の貧困問題は黒人の間でとくに深刻で、いっそう悪化している。70年代、公教育の人種比率を改善するため、学区外からのバス通学を導入することは大きな論争をよんだ。64年の公民権法から導入された黒人など少数民族集団や女性への積極的差別是正策(アファーマティブ・アクション)は、雇用や教育の機会均等を保障しようというもので、たとえば企業などへ優先枠をもうけて雇用するよう義務づけた。しかし、逆差別などの批判があり、さまざまな問題を90年代にももたらしている。

完全な平等は先のことでも、人種統制制度としての法的人種隔離は消滅し、黒人が人種隔離制度の屈辱にたえる必要もなくなった。公共施設は万人に門戸を開き、黒人は投票権により民主主義に影響をおよぼす権利を獲得した。人種平等を達成する道程は長くけわしかったが、その努力は完全な平等を達成するまでつづけられねばならない。

アフリカ系アメリカ人