公民権運動
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公民権運動
III. 人種隔離制度への黒人の抵抗

19世紀末に黒人は交通機関での人種隔離、州による投票権剥奪、学校や食堂での人種隔離と差別に反対する訴訟をおこした。しかし1896年、連邦最高裁は鉄道施設での人種隔離をさだめたルイジアナ州法をめぐるプレッシー対ファーガソン事件判決で「分離しても平等」の見解をしめし、99年にはこの原理を学校にも適用、これにより南部白人の間では分離しても合憲という認識と制度的差別体系の整備がすすんだ。

1. 20世紀初め

黒人は全国組織の結成により人種隔離制度に抵抗した。歴史家で社会学者のデュ・ボイスに指導され、1905年に開始されたナイアガラ運動の後、09年には20世紀でもっとも重要な黒人抵抗組織、全米黒人地位向上協会(NAACP)が結成された。法廷闘争と啓蒙活動を中心に人種隔離制度に抵抗したNAACPは、投票権剥奪と居住隔離をめぐる訴訟でそれぞれ15年と17年に勝利をおさめた。また11年には、黒人の産業社会、都市社会への適応を促進するために全国都市連盟(NUL)が発足した。

2. 第1次世界大戦期と大恐慌期

第1次世界大戦(1914~18)では多くの黒人が軍隊に入隊し戦闘に参加したが、軍隊内の人種隔離のもとで差別にくるしんだ。戦時中、白人の多くが兵役についたため労働力需要が高まり40万人以上の黒人が南部農村から北部や西部の都市へ移住した。南部黒人の移住は1950年代にはいるまでつづいた。

1890年には南部黒人の85%が農村に居住していたが、1960年までにこの割合は42%に低下した。60年、北部では黒人の95%が都市域に居住することになる。移住と都市化により北部では黒人コミュニティが形成され、強力な政治力を行使することで、人種隔離制度に対する南部黒人の闘いを援助した。

1930年代の大恐慌(恐慌)期、北部諸都市では人種差別への黒人の抵抗が高まった。「はたらけない場所では買い物をするな」をスローガンに黒人を雇用しない白人商店に対する不買運動をおこし、黒人児童への差別的扱いを理由に学校へのボイコットも組織された。

大恐慌期に黒人は失業率がきわめて高く雇用面でもいちじるしい差別にあったが、フランクリン・ルーズベルト大統領によるニューディール政策の恩恵をうけた。1936年の大統領選挙を契機に黒人票が民主党にながれこみ、黒人はルーズベルト政権をささえる重要な基盤となった。

反リンチ法案の不成立がしめすように、南部議員を中心とする議会の人種差別的姿勢は根強かったが、連邦政府と連邦最高裁は黒人寄りの姿勢を強めた。ちなみに、黒人に被害者の多かったリンチに対して、連邦法で歯止めをかけようとする反リンチ法は1968年まで成立させることができなかった。

3. 第2次世界大戦期

1939年に第2次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、第1次世界大戦の差別経験から黒人は軍隊や軍需産業でのより公平な処遇をもとめた。第2次世界大戦で徴兵された黒人は70万人に達したが、白人とは別部隊に編成された。人種隔離のもとで戦闘では白人と同じ軍務をになったのだった。

1941年春から夏、中心的な黒人労働運動指導者フィリップ・ランドルフらが、連邦政府に黒人の雇用差別禁止をもとめるため、黒人によるワシントン行進をよびかけた。この行進は実現しなかったが、ルーズベルト政権は政府と軍需契約をむすぶ企業が雇用面で人種差別をおこなうことを監視する公正雇用実施委員会(FEPC)の設置を約束した。FEPCは軍需産業における人種差別を完全には払拭(ふっしょく)できなかったが、決然たる抗議の姿勢が連邦政府をうごかすという教訓を黒人にあたえた。

投票権や教育の平等をめぐる黒人の闘いは大戦中もつづいた。NAACPの会員数は50万人に達し、1942年には北部の公共施設での人種隔離を改善するために、人種平等会議(CORE)が結成された。

第2次世界大戦中、黒人諸新聞はヨーロッパのファシズムと国内の人種差別との双方に対する勝利をとなえた。大戦に従軍した黒人兵士は、人種隔離の軍隊に編成されながらも、ヨーロッパやアジアでファシズム打倒の戦いに参加して差別批判の自覚と自信を深めた。また、黒人兵士の愛国主義的で勇敢な活躍が国内の白人の間に黒人公民権無視の現実を疑問視させる契機ともなった。

さらに、反ファシズム戦争の指導者を自覚するアメリカが、国内に人種差別を温存しているという矛盾を批判する国際世論の高まりもみられた。1882年に立法化されていた中国系移民排斥法が中国政府の非難をうけ、連邦議会が1943年に同法を撤廃し、48年には人種差別の禁止もうたう世界人権宣言が、アメリカも生みの親のひとりである国際連合で採択された。

こうした内外の変化を背景に、トルーマン大統領は公民権(市民権)に関する大統領委員会を設置、1948年には議会に特別教書をおくって公民権の保護をうったえた。議会は教書に対して具体的な行動はおこさなかったが、同年にトルーマン大統領は連邦政府職員の雇用での人種差別禁止や、軍隊での人種統合をすすめる行政命令を発し、50年には連邦最高裁が複数の州で営業している州際鉄道の食堂車での人種差別を禁じる判決をくだした。しかし、南部白人の差別感情や南部の人種隔離制度崩壊の兆しは容易にはあらわれなかった。

4. 人種統合教育とブラウン事件判決

第2次世界大戦後、NAACPは法廷闘争による完全な公民権獲得の闘いを継続し、1950年に連邦最高裁はスウェット対ペインター事件判決で州立のテキサス大学はそのロー・スクールで人種統合教育をおこなうべしとの判断をしめした。さらに54年、NAACPは白人公立小学校への入学を拒否されたカンザス州の黒人少女の親を援助してブラウン対トピーカ市教育委員会訴訟をおこした。

従来、裁判所では1896年のプレッシー対ファーガソン事件での「分離しても平等」という連邦最高裁判決を根拠に人種分離教育が正当化されていた。しかし、このブラウン対トピーカ市教育委員会事件判決(いわゆるブラウン事件判決)で連邦最高裁は、人種別学が黒人児童に劣等感をうえつけることで児童の発達を阻害するという理由から、公教育における人種隔離は教育の機会均等をさまたげているとして違憲とする画期的判決をくだした。

ブラウン事件判決に対して、南部白人社会では強烈な反発がまきおこった。1956年には南部選出の連邦議会議員の8割近くにより、判決を無効とする南部宣言が発せられ、人種隔離制度の維持をとなえる人々により白人市民会議が結成された。南部各州の議会は人種統合教育をさまたげる州法を続々と成立させ、クー・クラックス・クランの活動も再燃、ブラウン事件判決を支持する黒人の解職や白人だけの私立学校設立の動きも広がった。

ブラウン事件判決直後には、人種統合を推進する学校は南部にあらわれなかった。バージニア州のある郡では公立学校がすべて閉鎖された。1956年にはアラバマ州立大学に合格した黒人女性が強制退学させられ、57年にはアーカンソー州リトルロックで9人の黒人生徒が公立高校へ入学するのに州知事が陣頭にたって反対、白人市民による暴動が生じた。アイゼンハワー大統領は連邦軍を派遣して暴動を鎮圧、軍隊を駐留させて黒人生徒の安全をはかった。こうした模様はメディアをとおして全米にながれ、人種隔離教育のはらむ問題の根深さを国民に知らせた。