| 検索ビュー | アキテーヌ | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
フランス南西部の地域圏(レジオン)。北でポワトゥー・シャラント、北東でリムーザン、東でミディ・ピレネーのレジオンに、また南はピレネー山脈をはさんでスペインに接し、西はガスコーニュ湾(→ ビスケー湾)に面する。かつてのベアルン州と、ギュイエンヌ・ガスコーニュ州の西の部分にあたる。現在は、ドルドーニュ(県都ペリグー)、ジロンド(ボルドー)、ランド(モン・ド・マルサン)、ロット・エ・ガロンヌ(アジャン)、ピレネー・ザトランティク(ポー)の5県にわかれ、レジオンの中心都市はボルドーである。面積は4万1309km²、人口は312万3000人(2007年推計)。
| II. | 地形と気候 |
ピレネー山脈とマシフサントラル(中央山地)に源を発する数多くの川はやがてガロンヌ川にながれこむ。アキテーヌは主としてこのガロンヌ川の本支流の流域に位置し、第三紀の堆積(たいせき)層からなるアキテーヌ盆地が大半を占めるが、それぞれことなった景観をもつ4つの地域からなりたっている。北から、ペリゴール、ボルドレ、ランド、ピレネーの地方である。
ペリゴール地方は、北はリムーザン、東はケルシー、南はボルドレの各地方にかこまれ、現在はドルドーニュ県となっている。マシフサントラルの西の支脈である白亜紀の石灰岩台地で、水はけがよく、イゼール川、ドルドーニュ川などが多数の渓谷をつくっている。
ボルドレ地方はほぼジロンド県に一致する。広大な石灰岩の地層で、ところどころにガロンヌ川の支流のはこぶ土砂が堆積層をつくっている。この平野は、北のシャラント地方の石灰質の平野から、南のランド地方の砂地への移行型である。
ランド地方はその名(「荒れ地」の意)のしめすとおり、大西洋岸に230kmの底辺をもつ三角形の広大な砂質の台地で、砂は第四紀の氷河によってピレネー山脈からけずりとられはこばれてきた。50cmの厚さで堆積して褐色の砂岩の地層となり、雨水の浸透をさまたげている。そのため、長い間ランド地方は、水はけがわるく、雨がふるとすぐ湿地にかわる不毛の土地だった。しかし、19世紀の第二帝政時代(→ 帝政)に、シャンブルランという技師が、広大な土地を灌漑(かんがい)し、同時に松を植林し、砂丘が内陸におよぶのを防止した結果、かつての荒涼とした風景は姿をけした。
ピレネー地方の南部はピレネー山脈の西部にあたり、地形は起伏にとみ、樹木におおわれ、近づきにくい。最高峰はピレネー・ザトランティク県南端に近いピック・デュ・ミディ・ドッソウで標高は2884m。北側のランドに近い辺りは、山容もなだらかになり、標高もリューヌ山地で900mと低くなっている。アドゥール地方になると丘陵にかわる。ピレネー地方の南西端はバスク地方である。
アキテーヌのガスコーニュ湾岸は、コート・ダルジャン(銀海岸)とよばれ、まっすぐな海岸線がのび、それに平行して5kmの幅で砂丘がつづいている。そのため川は海にながれこめず、ビスカロス湖などの潟湖をつくっている。アルカション湾だけは海に開かれているが、砂州があるため大きな船が湾にはいることはできない。
気候は温暖な海洋性気候で、四季を通じてあたたかく、湿度も比較的高い。降水量は冬にもっとも多く、月間約120mm、7月がもっとも少ない。しかし、アキテーヌの中でも、地域によって違いがあり、リムーザン地方に接する地域は、雨が多く、マシフサントラルからの冷たい北東風のため気温も低い。ボルドレ地方は平均して年間2200時間近い日照があり、四季を通じて適度な雨にもめぐまれ、ブドウの栽培に最適である。
| III. | 産業 |
アキテーヌは、日照時間、温暖な気候、適度な降水量にめぐまれ、農業が盛んである。農家の規模は20haと小さいが、多角的農業が広くおこなわれ、農作物の種類は豊富である。伝統的に、穀物、ブドウ、タバコの栽培や牧畜がおこなわれてきたが、灌漑網が整備された結果、ピレネー・ザトランティク県、ロット・エ・ガロンヌ県、ランド県の平野ではトウモロコシの生産が盛んになり、アキテーヌのトウモロコシ生産量は全国一をほこる。しかし、もっとも有名なのはワインで、その代表がボルドレ地方で生産されるボルドー・ワインである。生産量はフランス第3位、その多くは輸出されるが、近年は他産地との競争もきびしい。ボルドー・ワイン以外にも、品質のよいベルジュラック、ポー周辺のジュランソンなどのワインがある。ブランデーのアルマニャックはミディ・ピレネー地域が中心であるが、アキテーヌでも一部が生産されている。漁業ではアルカション湾のカキの養殖が有名であるが、漁港と大消費地にめぐまれないため、それ以外はふるわない。しかし、この地の漁業には長い伝統があり、17世紀に他にさきがけて捕鯨をはじめたのはバスクの漁師たちだった。
工業も全般的にあまり盛んではないが、ボルドーはフランス薬品工業の中心のひとつとなっている。ほかに航空機産業やエレクトロニクス産業もみられ、また産軍共同の施設がおかれ、航空電子工学の部品や弾道ミサイルが製造されている。南部のポー川流域のポーには、巨大な化学コンビナートや、フランス最大の天然ガス田であるラックのガスを利用したアルミニウム製錬施設、テクノポール(先端技術開発研究の拠点)がもうけられている。アドゥール川下流域のバイヨンヌでは航空機製造、エレクトロニクス産業が盛ん。テクノポールもおかれている。
サービス業では観光業が中心をなす。第二帝政時代に皇后ウジェニーがビアリッツで海水浴をたのしみ海水浴が大流行したこともあって、古くから海水浴が盛んである。海水浴場としてはアルカション湾の人気が高いが、コート・ダルジャンにも多くの海水浴場がある。ピレネー国立公園やランド地方自然公園の自然の景観や、19世紀以来の歴史をもつダクスやウジェニ・レ・バンなどの温泉にもめぐまれる。また、ドルドーニュ地方には先史時代や歴史時代の遺跡が多くのこる。
| IV. | 歴史 |
「アキテーヌ」の名は、前56年にこの地域がローマの属州となり、「アクイタニア」(ラテン語で、「水の国」の意)とよばれたことに由来する。アキテーヌ盆地、つまり北はポワトゥー地方、東はガロンヌ川、南はピレネー山脈、西はガスコーニュ湾にかこまれた地域をさすが、境界線は時代とともに移動している。また、中世以降はギュイエンヌ、ガスコーニュ、ベアルンという地方名がつかわれるが、アキテーヌはそれら全体をさす。
前1世紀にローマ人がこの地を征服する以前、ケルト人のタルベリイ族、ソティアテス族、アウスキイ族、コンウェナエ族、ビゲリオネス族、ココサテス族は、のちのローマ帝国時代のアキテーヌよりも南に位置していた。ローマのアウグストゥス時代のアクイタニア州は北に広がり、マシフサントラルをふくんでロワール川にまで達していた。そこにはケルト人のサントネス族、ビトゥリゲス族、ペトルコリイ族、レモウィケス族、カドゥルキ族、アルウェルニ族が居住していた。このころ、ローマよりブドウの栽培が導入され、ボルドー周辺でワインの生産がおこなわれている。4世紀、ディオクレティアヌス帝の改革によりアクイタニア州は3分され、ロワール川からボルドレ地方を範囲としてボルドーを主都とする第1アクイタニア州、マシフサントラルを範囲としブールジュを主都とする第2アクイタニア州、ボルドーの南からピレネー山脈まで、昔のケルト人のアキタニアを範囲とし、主都をエオーズにおくノベンポプラニア州、となった。418年、西ゴート族(→ ゴート族)が第1アクイタニアとノベンポプラニアをうばいアキテーヌ王国をたてた。これはラテン文化とローマ法を継承した国家で、5世紀末にはペリゴール地方やオーベルニュ地方もアキテーヌ王国に併合された。507年ポワティエ近郊のブイエで、西ゴート王のアラリック2世がフランクのクロービスにやぶれ、アキテーヌはフランク王国の領土となった。クロービスの死後、領土は息子たちにわけられ、アキテーヌも合併や分割をくりかえした。その間スペインのバスク人の侵入もこうむっている。
778年カロリング朝のカール大帝がアキテーヌ王国をたて息子のルイにあたえた。王国は数多くの支配者の手をへて、やがて公領となり、10世紀にはポワティエ家の所有となった。1058年にアキテーヌ公国とガスコーニュ公国が合併した。
アキテーヌは12世紀にかがやかしい時代をむかえた。アキテーヌ公の宮廷ではトルバドゥールとよばれた抒情(じょじょう)詩人たちを中心としてオック語(プロバンス語)の文学が花開いた。ギョーム9世自身、有名なトルバドゥールであった。1137年アキテーヌ公ギョーム10世の娘エリオノール(アリエノール・ダキテーヌ)がフランス王子のルイと結婚。同年ルイは即位してルイ7世となった。結婚の際、エリオノールは、ポワトゥー、サントンジュ、アングーモワ、リムーザン、ペリゴール、ギュイエンヌ、ガスコーニュの領土を財産として持参した。聖地への十字軍や2人の娘の誕生の後この結婚は破綻(はたん)し、52年エリオノールは持参した領土とともにボルドーにもどった。同年彼女は、プランタジネット家のアンリと再婚。54年アンリはイングランド王ヘンリー2世となり、エリオノールの領土をくわえた広大な土地がイングランド領となった。ここに領土をめぐる英仏国王の長い対立がはじまった。
エリオノールの死後、プランタジネット家の内紛に乗じてフランス国王フィリップ2世(オーギュスト)が、イングランドのジョン欠地王からギュイエンヌをのぞいた大半の領土をとりもどした。しかしギュイエンヌは1259年のパリ条約であらためてイングランド領とみとめられ、百年戦争の時代まで解決はもちこされた。1360年ブレティニーの条約によってアキテーヌ全域がイングランド領とされ、62年アキテーヌ公国となった。80年ごろ、イングランドはボルドー、バイヨンヌで敗退。1453年カスティヨンの勝利によってシャルル7世は最終的にアキテーヌを奪回して国王領とし、この年百年戦争は終わりをつげた。