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| IV. | 歴史 |
「アキテーヌ」の名は、前56年にこの地域がローマの属州となり、「アクイタニア」(ラテン語で、「水の国」の意)とよばれたことに由来する。アキテーヌ盆地、つまり北はポワトゥー地方、東はガロンヌ川、南はピレネー山脈、西はガスコーニュ湾にかこまれた地域をさすが、境界線は時代とともに移動している。また、中世以降はギュイエンヌ、ガスコーニュ、ベアルンという地方名がつかわれるが、アキテーヌはそれら全体をさす。
前1世紀にローマ人がこの地を征服する以前、ケルト人のタルベリイ族、ソティアテス族、アウスキイ族、コンウェナエ族、ビゲリオネス族、ココサテス族は、のちのローマ帝国時代のアキテーヌよりも南に位置していた。ローマのアウグストゥス時代のアクイタニア州は北に広がり、マシフサントラルをふくんでロワール川にまで達していた。そこにはケルト人のサントネス族、ビトゥリゲス族、ペトルコリイ族、レモウィケス族、カドゥルキ族、アルウェルニ族が居住していた。このころ、ローマよりブドウの栽培が導入され、ボルドー周辺でワインの生産がおこなわれている。4世紀、ディオクレティアヌス帝の改革によりアクイタニア州は3分され、ロワール川からボルドレ地方を範囲としてボルドーを主都とする第1アクイタニア州、マシフサントラルを範囲としブールジュを主都とする第2アクイタニア州、ボルドーの南からピレネー山脈まで、昔のケルト人のアキタニアを範囲とし、主都をエオーズにおくノベンポプラニア州、となった。418年、西ゴート族(→ ゴート族)が第1アクイタニアとノベンポプラニアをうばいアキテーヌ王国をたてた。これはラテン文化とローマ法を継承した国家で、5世紀末にはペリゴール地方やオーベルニュ地方もアキテーヌ王国に併合された。507年ポワティエ近郊のブイエで、西ゴート王のアラリック2世がフランクのクロービスにやぶれ、アキテーヌはフランク王国の領土となった。クロービスの死後、領土は息子たちにわけられ、アキテーヌも合併や分割をくりかえした。その間スペインのバスク人の侵入もこうむっている。
778年カロリング朝のカール大帝がアキテーヌ王国をたて息子のルイにあたえた。王国は数多くの支配者の手をへて、やがて公領となり、10世紀にはポワティエ家の所有となった。1058年にアキテーヌ公国とガスコーニュ公国が合併した。
アキテーヌは12世紀にかがやかしい時代をむかえた。アキテーヌ公の宮廷ではトルバドゥールとよばれた抒情(じょじょう)詩人たちを中心としてオック語(プロバンス語)の文学が花開いた。ギョーム9世自身、有名なトルバドゥールであった。1137年アキテーヌ公ギョーム10世の娘エリオノール(アリエノール・ダキテーヌ)がフランス王子のルイと結婚。同年ルイは即位してルイ7世となった。結婚の際、エリオノールは、ポワトゥー、サントンジュ、アングーモワ、リムーザン、ペリゴール、ギュイエンヌ、ガスコーニュの領土を財産として持参した。聖地への十字軍や2人の娘の誕生の後この結婚は破綻(はたん)し、52年エリオノールは持参した領土とともにボルドーにもどった。同年彼女は、プランタジネット家のアンリと再婚。54年アンリはイングランド王ヘンリー2世となり、エリオノールの領土をくわえた広大な土地がイングランド領となった。ここに領土をめぐる英仏国王の長い対立がはじまった。
エリオノールの死後、プランタジネット家の内紛に乗じてフランス国王フィリップ2世(オーギュスト)が、イングランドのジョン欠地王からギュイエンヌをのぞいた大半の領土をとりもどした。しかしギュイエンヌは1259年のパリ条約であらためてイングランド領とみとめられ、百年戦争の時代まで解決はもちこされた。1360年ブレティニーの条約によってアキテーヌ全域がイングランド領とされ、62年アキテーヌ公国となった。80年ごろ、イングランドはボルドー、バイヨンヌで敗退。1453年カスティヨンの勝利によってシャルル7世は最終的にアキテーヌを奪回して国王領とし、この年百年戦争は終わりをつげた。